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町山智浩、宮崎アニメについて語る(要点まとめ)

映画評論家の町山智浩さんが、作家の切通理作さんと共に宮崎駿監督のアニメについて解説している動画が面白かったのご紹介します。町山さんは、「『もののけ姫』以降の宮崎アニメは何が何だかさっぱり分からないのに、どうして皆観に行くんだ?」と疑問を呈し、「宮崎監督が伝えようとしていたのは、本当はこういうことなんだよ!」と一作品ごとに説明しています。




以下の文章では、この中で個人的に気になった箇所だけを抜き出してみました。ただし、全文書き起こしではありません。トーク内の町山氏の発言のみを取り上げ、その主旨を要約しています。全文は動画を見れば分かりますが、動画自体が非常に長い(130分以上ある)ので、「とりあえず解説内容の要点だけを知りたい」という人は参考までにご覧ください。


●みんな宮崎アニメの内容を本当に理解してるの?
千と千尋』が大ヒットしてる時に「あの映画に出ている湯屋は売春宿だ」と発言したら、物凄くネットで叩かれたんだよオレ(笑)。でも、劇場の観客動員数はどんどん上がってってる。凄い数の人が映画を観てるわけだよ。でも、誰も内容を理解してない(笑)。これが大衆なんだよ!これって宮崎さんは喜んでないと思うよ。だって、自分のことをわかってない人が来たって嬉しくないじゃん。

じゃあ、宮崎作品が「わからないもの」になっていったのはどこからか?と言ったら、ナウシカ』の完結(原作版)からだよね。あれ読んだ人は感じたと思うけど、後半の展開って意味不明じゃない?禅問答みたいな会話ばっかりでさ。しかも、映画版で描かれていた内容自体をひっくり返してるんだよね。

映画版の『ナウシカ』は、「”腐海”が放射能で汚染された世界を浄化している。だから自然を守らなければならない」というわかりやすいエコロジーの話だったのに、原作漫画では、「”腐海”とは人間が作ったものである」って、物語の前提をひっくり返しちゃってるんだよ。ここから宮崎さんの作品は、自分が出したテーゼにアンチテーゼをぶつけるという”徹底した複雑化”が始まったんです。

それまでの宮崎アニメは、「善か悪か」っていうわかりやすい二元論だったんですよ。そして『コナン』のラナとか『ラピュタ』のシータみたいに純粋な処女のヒロインが世界を救うカギを握っていて、それを悪い奴が奪おうとする話をずっとやってたんですけど、それ自体をチャラにしちゃった。

決定的だったのは『もののけ姫』で、ヒロイン自身が殺戮をする人で、彼女と対立するエボシ御前も殺戮をする人で、殺戮をしない人が出て来ない。登場人物も、善か悪かわからない人ばっかりで、映画を観た人も誰を応援すればいいのか分からないんじゃないの?って内容だった。

だから、『もののけ姫』以降は、何だかよく分からないまま映画を観ている人がどんどん増えて、最新作の『風立ちぬ』に至っては、最後まで全然わからないけどなぜか映画は大ヒットしてるっていう、異常な世界がずっと続いてるんですよ。とんでもないことだと思うよ、これは。


●なんで『ラピュタ』がヒットしなかったんだよ?
俺が一番悲しかったのは、『ラピュタ』を公開時に観に行った時、まあ東映の地下の劇場で『先天性欲情魔』っていうポルノ映画をやってるような映画館なんだけど(笑)、そんなところで『ラピュタ』を観たんですよ。そしたら、客が全然いなかった。3人ぐらいしか入ってないの。で、今はこんなに宮崎アニメに客が入ってるでしょ?ふざけんじゃねーぞ!って感じだよね(笑)。なんで『ラピュタ』の時に来なかったんだよ!

『トトロ』もそうなんだよ。知ってます?『トトロ』って劇場ガラガラだったんだよ。興行的には大失敗だったんだ。でもテレビで当たったんだよ。『トトロ』ってそもそもテレビで放映するためのアニメだから。昔はA作品とB作品があって、A作品っていうのは2時間ぐらいの映画、B作品は1時間半から80分ぐらいの尺で、それを組み合わせるっていうのが一般的で、『トトロ』はB作品の扱いだった。まあ『トトロ』がコケたのは併映の『火垂るの墓』のせいだって説もあるけどw

でも、『ラピュタ』のコケ方っていうか、客の入らなさというのは「本当に悲しいな」と思ったもの。誰もいない劇場でさ、ラピュタが空に向かって飛んでいくラストを「俺以外誰もいないよ〜!」とか思いながら観てたもん(笑)。『ラピュタ』って、今観ると本当に分かりやすい話で、テーマも凄く分かりやすいのに、あれがコケて『風立ちぬ』が何で大ヒットするのか、本当にわかんないよ!


●宮崎アニメは全部同じだ!
分かりやすいってことで言うと、宮崎さんの初期の作品って、構造が全部同じなんだよね。まず出てくるキャラクターが同じ。少年がいて少女がいて、大人の女性がいて、お婆さんがいて、悪役がいて…、これらのキャラは名前が違うだけでほぼ同じ構成なんですよ(笑)。

例えば、大人の女の人たち。『コナン』のモンスリー、『ルパン』の不二子、『ナウシカ』のクシャナ、『もののけ姫』のエボシ御前、みんな同じ人じゃん(笑)。キャラもほとんど変わらないでしょ(笑)。この人たちは大人の女で常識が凄くあって、中でもクシャナの言ってることは全然間違ってないんだよね。崩壊してしまった滅亡後の世界を、科学の力で何とかしようとしてるんだから。エボシ御前もそう。クシャナとエボシ御前は完全に同一人物ですよ(笑)。

それから、「上下の移動」っていう点も同じ。例えば『未来少年コナン』の舞台は、インダストリアっていう塔構造になってる未来社会で、一番下に下層民がいて、上の方に支配者がいるという世界になってたじゃん。いわゆる階層社会が、実際に絵になって存在してるっていう。

カリオストロの城』の場合も、城の地下が地獄みたいになってて、上の方に悪い奴がいてお姫様が捕えられていて、一番下まで落っこちたルパンが上を目指すっていうストーリーだったでしょ?要するに、一度下に落ちた主人公が上へ上へと登って行って、最後は一番てっぺんで敵と戦って終わるっていう話を、ずっとやってきたんだよ宮崎さんは。だから観てて思うのは、「同じやつを俺たちもよく飽きずにずっと観てるよなあ」って(笑)。

でも、これが後期の作品になるとちょっと変わってくる。構造は一緒なんだけど価値観が変わってるんですよ。何が変わるかっていうと、まず「汚れ(けがれ)無き少女」だったヒロインが、どんどん汚れてくるんです。最初は純真無垢でオシッコもしないような少女が、どんどんリアルになってくる。

それから、”悪”の定義が変わりました。『コナン』や『カリオストロ』の悪人は誰が見てもはっきりわかる、非常にわかりやすい敵キャラだった。ところが、そういうわかりやすい悪人っていうのは、『ラピュタ』のムスカを最後に一切出て来ないんですよ。だから、『ラピュタ』より後の宮崎アニメは、誰が悪なのか分からない映画になってるんですよ。


●なぜスッキリしない映画になったのか?
例えば、『ナウシカ』と『もののけ姫』っていうのは、構造的にはほとんど同じ話なんです。『ナウシカ』は”自然側”と”文明側(人間)”が対立してる世界で、仲介者のナウシカが両者の板挟みになる、という話でした。『もののけ姫』も基本的には同じ話なんだけど、その前に宮崎さんは『ナウシカ』の原作漫画で価値観の逆転をやってるんですよ。

映画版『ナウシカ』では、「腐海が世界を浄化している」という話だったものを、漫画版では「腐海は人間が作ったものであり、汚れ(けがれ)を排除するプロジェクトだった」ということが判明し、しかもナウシカは「汚れがあるからこそ人間だ」「命とは、光と影の両方で命なんだ」と言い切る。ここで価値観がひっくり返っちゃった。

で、そうなると、もうどちらも勝たせられなくなるんです。だって、どっちの味方もできないから。なので最終的には「共に生きる」という話にならざるを得ない。その辺から、宮崎さんの作品は決着がつかない、スッキリしない映画が多くなるんです。

価値観の逆転というのは、つまりそれまでの宮崎アニメでは「汚れ(けがれ)とは良くないものだ」「だから排除しなければならない」と言っていたのに、「最も汚れているのものが、実は最も清らかなものなんだ」という概念に変わってくるんですよ。たぶん、網野義彦さんの「中世研究」を読んだんだろうね。どんどん汚いものを描くようになってる。

「汚れ」と「浄化」というキーワードは宮崎作品に何度も出てきて、『もののけ姫』ではタタラ衆が汚れたものとして出てくる。エボシ御前は、そういう”社会の下層”に置かれている人たちを助けようとしてるんですよ。科学の力によって差別の無い世界を作ろうとしている。それって凄くいい人じゃないですか?だけど、自然を破壊してるからサンとは対立することになるんですね。

でも、この両者の対立って、どっちにも味方できないじゃないですか?どちらも悪くないから。そこへやって来るアシタカも、呪いによって汚れて社会から追い出された人間で、要するにサンもアシタカもエボシも”居場所が無い人たち”なんですよ。こういう、誰にも肩入れできない映画を観たって、なかなか理解できないですよ。どこにも正義も悪も無いし、「共に生きよう」ぐらいしか言いようが無い。そもそも、『もののけ姫』って”普通の人”が全然出て来ないんだよ!俺たちのような”一般人”が一人も出て来ない。それなのに、”国民的大ヒット”って一般人が大勢観に来てるんだよ!どーなってんの!?


●『千と千尋の神隠し』は『魔女の宅急便』だった
それで『もののけ姫』の後に『千と千尋の神隠し』を作るんだけど、この映画がもっとわかんない(笑)。あの湯屋って個室浴場じゃないですか?宮崎さんがインタビューで答えてるんだけど、いわゆる「いかがわしい事をするための場所だ」とハッキリ言ってるんですよ。それなのに、俺がそのことを喋ったらスゲー叩かれた(笑)。なんで俺が叩かれなきゃならないの?宮崎さんがそう言ってるんだよ!

この設定は、どこかの地方に「神様をお風呂に入れる」って祭りがあって、宮崎さんはそこから思い付いたんだって。だから、あそこで働いている女の人は「神聖売春」、つまり「神様のための娼婦」っていう立場なんですよ。ここで面白いのは、この映画のテーマって”働くこと”、つまり労働ですよね。主人公がその場所で作法を習うって話じゃないですか?これって完全に『魔女の宅急便』のやり直しだよね。

それで、「一番下まで降りて行ってまた上に上がる」っていう、いつもと同じことをやってるんですよ(笑)。しかも、機関部にはなぜかどこかで見たような顔の爺さんがいるっていう(笑)。『ラピュタ』にもいましたよね?宮崎監督の映画って、どの世界にも必ずこういうジーサンがいるんですよ。なぜなのかよくわかんないんだけど(笑)。

で、千尋はここで働いているうちにどんどん精神的に追い込まれて、お腹が痛くなっちゃうじゃないですか?何の説明も無くいきなり「お腹痛い」ってうずくまるんだよね。『魔女の宅急便』でもキキが寝込むシーンがあるでしょ?アレは初潮だよね。だって11歳の女の子だもん。だから、こういうところも凄くリアルに描いてるんですよ。


●オタクは働け!
で、千尋カオナシと出会うんだけど、カオナシは金を持ってるけど使い道がわからなくて、千尋を金で買おうとするんだよね。それで、彼は銭婆のところへやって来て、雇われるんだけど、仕事をもらったら安定するんですよ。これは、「こういう人には仕事を与えておけ」ってこと。つまり、オタクには仕事を与えておけってことなんですよ(笑)。だって、ほっとくとあいつら何するかわかんないんだもんwww

まあ要するに、「労働が人に生きる価値を与える」ってことですよ。これって凄いよね。だって、労働をテーマにしたアニメって他に無いでしょ?『ホルス』にしても『ラピュタ』にしても、宮崎アニメには必ず労働シーンが出てくるんですよ。共産主義が無くなった後にも労働をきちんと描き続けているのは、宮崎監督の社会的な責任感だと思う。だって、アニメの主人公って働かないじゃん(笑)。

まあ、最近の深夜アニメはそうでもないけど、昔のアニメはみんな何かと戦ってるんだよ。つまり”戦士”という職業なんだけど、「それ年収いくらだ?」って話でさ(笑)。だから、労働を通して子供たちの成長を描いているのは、凄く重要なことだと思う。これは、宮崎監督自身が、自分の作ったアニメを観て「メカと美少女アニメ好きなオタク」がどんどん増えている現状に、危機感を抱いているからじゃないかな?

『トトロ』を作った時も、「うちの子供は『トトロ』が大好きでビデオを一日中見てます」というお母さんの声を聞いて衝撃を受けたって。「『トトロ』ばっかり観ててどうすんだ!」って。「家に引き籠ってないで外で遊べよ!」って。宮崎さんのオタク嫌いは有名だけど、カオナシっていうのは、つまりそういうオタクの象徴なんだよね。家でアニメをずっと観てたり、AKBのCDを何枚も買ったり。「そんなことしてないで働けよ!」ってことなんだよ(笑)。

しかも、ここで宮崎監督凄いなって思うのは、自分のアニメを観て育った人たちに対して「ダメじゃないか!」と言う時に出して来るのが、”主人公の親”なんだよね。つまり、『トトロ』とかを観て育った世代が今ちょうど親になってて、その親を映画の中でイヤ〜な奴に描いてるんですよ(笑)。娘とも全然コミュニケーションが無いし、豚になっちゃうし。宮崎監督はインタビューで「あれは80年代のブランド野郎どもだ」と言ってんだよね。アニメオタクを含めて、この世代の奴らはみんなダメだ!と言ってるんですよ。

これって凄いことなんだよ。だって海外の映画も含めて「あんたの親はダメだよ」と言っちゃう映画なんて、『バンデッドQ』ぐらいしか無いんだよ(笑)。『バンデッドQ』って大問題になって、日本ではカットされたんですよ。東宝東和が「親が爆死して終わる話なんて子供がショックを受けるからマズイ」って言って肝心なシーンを切っちゃったんだ。ひどいよね(笑)。『千と千尋』ではノーカットで「親はダメだ!」と言っている。でも、このメッセージが全然伝わってない。あれだけ大勢の日本人が観てて、本当に何も伝わってないの!どーなってんだ!?って感じだよね(笑)。


●『崖の上のポニョ』で初めて女を受け止めた

崖の上のポニョ』も『千と千尋』と同じメッセージですよね。『ポニョ』を初めて観た時、「こりゃひでえ!」と思ったんですよ。主人公の宗介が母親を名前で呼んでるんですよ。で、その母親も常にイライラしてて、車に乗ってドリフトとかしてるんですよね。父親は全然家に帰ってこないし。こんな酷い両親は、いくらなんでもダメすぎるよ!

ってことをラジオで喋ったら、「町山はポニョを批判している!」ってネットで叩かれた。でも宮崎さんは、ワザとダメな両親として描いてるんだよ。作曲家の久石譲さんに渡したメモにも「ダメな親である」って書いてあるんですよ!俺を批判したヤツ、バカじゃねーの!?w

金魚を入れたバケツに宗介が水道水を入れちゃうのも、「彼は何も知らないから水道水を入れたんだ」と監督は話している。じゃあ、なんで宗介は水道水を入れたのか?親が教えてないからだよ!代々継承していく常識や学校で教えてくれないことを教えるのが親の役目だったのに、最近の親はその役目を果たしていない。それを象徴してるんだよ!

ただ、『千と千尋』の親はわかりやすく「嫌な親」として描かれていたけど、『ポニョ』はある種”理想化”されてるから、「ダメな親」という感じが伝わりにくくなってる。だからあの映画を観た人にも、その辺が伝わってないんだろうね。

あと、『ポニョ』が凄いのは、初めて女性の愛を受け止めたところ。今までの宮崎さんのキャラってさ、いつも女から逃げてたんだよ。ルパンにしてもアシタカにしても、女の心だけ奪っておきながら、「でもお前とは一緒に暮らせない」って逃げてたんだよ。ひでえ男だよね(笑)。『ポニョ』が、宮崎アニメの中で初めて彼女から逃げずに受け止めて終わってるんだよ。『カリオストロ』からここまで来るのに、すっごい長くかかってるよね(笑)。

しかもここでは、『ナウシカ』でもできなくて『もののけ姫』でもできなかった、「人間社会と大自然の結婚」っていうのを成し遂げちゃうんですよ。「共に生きよう」と言いながらも対立関係は解消できなかった両者が、ここでようやく一つになれたんですよ。だからポニョは、アシタカですら出来なかった”結婚”というものを成し遂げた初めてのキャラクターなんですよ。

これって、主人公が幼稚園児だから出来たんだろうね。つまり、子供はいいけど僕らや僕らより上の世代は「ダメだ!」って言ってるんですよ。だからこの物語では、津波によって”親の世代”の文明が全部滅んじゃうでしょ?その後に来るのは”子供たちの世代”で、そこでは自然と人間が仲良く共存できるんじゃないか、と宮崎さんは言ってるんですよ。

もう一つ重要なのは、宮崎アニメに必ず出てくるババア…いや”お婆ちゃん”たちが(笑)、主人公たちを上の方から見てるんだよね。世界を俯瞰してる者として出てきて、それが”子供たちの世代”と結びつくんですよ。で、最後はお婆ちゃんたちの所に行って終わるじゃないですか?つまりお婆ちゃんを、子供たちに色んな知恵を授けてくれる人生の経験者として描いてるけど、それは宮崎さんよりも上の世代なんですよ。つまり、自分たちの世代には未来が無いけど、それ以外の世代には良い未来であって欲しいという宮崎さんの想いが現れてるんじゃないかと。そういうことだと思いますよ。


●『風立ちぬ』は恐ろしい映画だ!
風立ちぬ』の主人公を”いい人”と思ってる人がいるみたいだけど、二郎は全然いい人じゃないですよ。彼は「美しいものを作りたい」って言ってるんですよ。発明家が便利な物を発明して世の中を良くするのは人の役に立つけど、”美しいもの”って何だ?と。それってただのエゴじゃん!

で、これは多分、宮崎さん自身のことなんですよ。宮崎さんはよくインタビューで、「アニメなんか何の役にも立たない。ただオタクを増やしてるだけだ。あれは戦犯だ!」みたいなことを言ってるんだけど、それって「美しいものを作りたい」という二郎と同じなんじゃないかと。

紅の豚』で飛行機を作る小さな工場が出てくるじゃない?女の人が一杯働いてる場面。あれは、要するにジブリだよね。そこに宮崎さんそっくりなキャラが出てきて、「女はいいぞ、良く働くから」とか言ってんの。あれ観た時「ヒデーこと言ってんなこの人!」とか思ったんだけど(笑)。だから、彼にとっての飛行機作りっていうのはアニメなんですよ。アニメと飛行機がイコールになってるんですよ、『紅の豚』では。

で、『風立ちぬ』でもおそらくそうなんですよ。『紅の豚』の続きみたいな物語で、主人公は選択を迫られるんですよ。そこで重要なのは、二郎がユンカースの工場へ行くシーンがあるじゃないですか?ユンカースはスツーカっていう急降下爆撃機を作ったんだけど、それを作った人は戦争反対でナチが大嫌いだった。その結果、ヒトラーに捕えられて軟禁された挙句に死んじゃう。つまりこの人は戦争に協力しなかった人なんですよ。

それに対して二郎はどうしたか?戦争に協力したんです。自分のエゴを満たすために魂を売ったんですよ。とんでもなく悪い奴だよ!二郎はピュアな青年で「戦争に加担している自覚が無い」と思ってる人がいるかもしれないけど、それは違う!二郎は自分の意思で戦争に加担することを選んでるんだよ!映画を観てる多くの人は、それに気付いてないんだよ!本当はすごく恐ろしい映画なんだよ!


●二郎は死ぬはずだった?
で、最後のシーン、二郎とカプローニが草原みたいなところで会話してる場面。あれを理解してる人ってどれぐらいいるの?あれは死後の世界なんだよ。空を見上げると飛行機がブワーッと飛んで行ってるじゃない?『紅の豚』にも同じようなシーンがあったけど、あれは天国を表わしてるんだよね。で、その下には地獄がある。じゃあ、二郎が立ってる場所は何か?天国と地獄の間なんですよ。これはカトリックでは”煉獄”と呼ばれてます。宮崎監督もインタビューで「あれは煉獄だ」とはっきり言ってる。

じゃあ、なぜ煉獄が出てくるのか?宮崎さんは「カプローニはメフィスト・フェレスだ」と言ってるんだよね。これはゲーテの『ファウスト』に出てくるキャラクターで、主人公の望みを叶えることと引き換えに魂をもらう、という契約を結ぶんです。で、最後に「さあ約束通り、魂をもらうぞ!」とやって来ると、死んで聖女になったヒロインが出てきて、彼女の聖なる祈りによって主人公は救われて天国に行く、っていう物語なんですよ、『ファウスト』は。

風立ちぬ』は、まさにこれなんですよ。つまりカプローニは最後に二郎の魂を取りに来たんですね。そこへ突然、菜穂子がやって来て、「生きて」って言うんですよ。なぜいきなりこんなことを言うのか?あのセリフは、絵コンテの段階では「来て」だったんですよ。だから、元々は「カプローニに取られる前に二郎の魂を菜穂子が取って天国へ行く」っていう話だったんですよ、本来はね。

それをプロデューサーか誰かが「これじゃちょっと…」と言ったんで、後から「生きて」に変えたんです。だから、二郎は死なずにその後も生き続けたんだけど、彼の創作のピークは零戦を作っていた10年間だけで、その後は特に活躍することもなく終わっていったという。だから、これははっきり言うと”創作者の罪の話”なんですよ。「凄いものを作りたい!」という一心で悪魔に魂を売っちゃった人の話なんだよね。

この『風立ちぬ』の中で一番良かったシーンってどこだった?俺は、二郎が三菱重工へ行ってグワーッと図面を描いてるところ。あれ観た時、「なにコレ!?図面を描いてるだけなのに何でこんなに凄いアニメーションなんだ!?」ってびっくりしたもん。あれが二郎にとってのアクションなんだよね。彼にとっての人生の全てが図面を描く時なんだよ。

しかも、あの動きは「アニメーターが作画してる時の動き」なんだよ。セルアニメ時代のアニメーターの仕事って見たことある?(重ねた紙を一枚一枚めくりながら)こうやってバッバッバッと絵を描いてるんだよ。二郎が図面を描いてるシーンってのは、あれはまさに昔のアニメーターの動きなんだよ。だから、宮崎駿監督にとっての飛行機作りっていうのは、飛行機のアニメを描くことだったんだよ。二郎も宮崎さんも、「頭の中で飛行機を飛ばしてる人」なんだよね。完全に自分のことを描こうとしているとしか思えない。


●なぜ二郎は庵野秀明なのか?
ところで、『8 1/2』って映画観た?フェデリコ・フェリーニ監督の映画なんだけど。これは、主人公が映画監督で、批評家からもローマ法王からも内容について注文をつけられ、「どういう映画を作ればいいのか分からない」と悩む話なんです。もう一つ、主人公が凄いスケベなの(笑)。奥さんがいるんだけど、あまりセクシーじゃないのね。でも主人公は巨乳好きなんですよ(笑)。ここでも主人公は「奥さんのことは好きだけど、巨乳も捨て難い」といって悩むんです。『8 1/2』は、そういう主人公の悩みをずっと描いてる映画なんですよ。

で、最後に「俺はこれだ!」って言うんですよ。「色んなことで悩んでてグチャグチャで何が何だかわかんないけど、これが俺なんだ!俺が表現したいのは、こんな俺自身なんだ!」って主人公が言うと、それまで彼を悩ませてきた批評家とか奥さんとかが突然全員バーッと出てくるんですよ。で、出てきて皆で輪になってパチパチパチと拍手するっていう。エヴァンゲリオン』じゃん!エヴァ』のTV版の最終回ですよコレ(笑)。庵野秀明が作った『エヴァンゲリオン』と、ここで重なるんですよ!だから二郎の声は庵野さんなんですよwww
今回、宮崎さんが『風立ちぬ』で言いたかったことって、結局こういうことなんじゃないかと思う。今までは「自然を大事にしよう」とか、色んなテーマを掲げてきたけど、そういうはっきりしたテーマなんてもう無いんだと。主人公の二郎は何だかフラフラしてて一貫性が無いし、戦争は嫌いだけど戦闘機は作りたいとか矛盾してるし、話も何だか良くわからない。でも、「こういう何が何だかわかんないのが俺なんだよ!」ってことを宮崎さんは『風立ちぬ』で表現したかったんじゃないかなと。

もののけ姫』以降、どんどん話が混乱していって観客がわからなくなってる、っていうのは、監督自身がその混乱した状態をそのまま出してるからなんだよね。観客は「この映画のテーマは何だろう?」とか、そういうことを知りたがるじゃない?ほとんどの人は「テーマは何ですか?」ってすぐ聞くじゃん。でも、宮崎さんは言いたいことやテーマがあって映画を作る人じゃなくて、ただ「アニメが作りたい」から作ってるだけなんだよね。

こういう”テーマ主義”っていうのは、いまだに蔓延してるよね。それこそ、蓮見重彦さんがそれをぶっつぶすために「表層批評」ってのを出してきたわけじゃない?それなのに、いまだに世間の批評家とかジャーナリストとか観客は、映画を観終わった後に「で、この映画って何が言いたかったの?」とか普通に聞いたりするよね。そうじゃないんだよ!「何かを言いたかった」んじゃなくて、何かを見せたかっただけだからさ。

二郎は戦闘機を作ってたけど、戦争がしたかったわけじゃない。ただ、美しいものを作りたかっただけ。でも、世間は「戦争の道具を作ってるじゃないか!」と言ってくる。だから(荒井由美の歌が)「他の人にはわからない」なんだよね。もしテーマがあるとすれば「お前らにはわからねえんだよ!」ってことなんだよ(笑)。でも、宮崎さんの最後の作品で「他の人にはわからないけど、君にはわかるだろ?」と選んだのが庵野さんだった…ってのが凄いなと。きっと庵野さんも他の人から「アイツ何考えてるかわかんねえな」とか思われてるんだろうね(笑)。


宮崎駿の心は誰にも理解されない
宮崎さんのアニメで俺が一番好きなのは、とにかく戦闘シーンの残酷さだからさ。『ナウシカ』でバカガラスが撃墜されるシーンの残酷さ!『ラピュタ』でロボット兵が暴走して無関係の人たちが爆死するシーンの残酷さ!あれ観てほとんどの人は戦慄してるだろうけど、一部の人は「ウオ〜!」ってなってる(笑)。その時の心は完全にムスカだよね(笑)。ああいうシーンって、監督の心の中にそういう一面があるから作れるんだよ。で、そういう心を持ってる人は常に少数派なんですよ。だから誰にも理解されないんです。

映画に限らず、ほとんどの芸術作品は常に少数派の人達の心の叫びであるにもかかわらず、一般の人たちが観ている。だから、一般の人たちの心の中にある”ちょっと外れた部分”を刺激するんだけど、たぶんそれは自覚が無い刺激なんだよね。二郎を見て「あれは俺だよ!」なんて思う人はあまりいないと思う(笑)。だから宮崎さんの本質のコアな部分っていうのは基本的にはアウトサイダーなんだけど、面白いなと思うのは、どんなに宮崎アニメが大衆化しても、そういう部分にビビッと反応するところだよね(笑)。

クリストファー・ノーランの『インターステラー』は、自然破壊で地球がどんどんダメになっていく映画で、「地球なんか捨てちまえ」っていう話なんだよね。それに関して監督にインタビューしたんだよ。「あの映画ってエコロジーの人から怒られないんですか?」って聞いたら、「その隠れテーマにはまだ誰も気付いてないから言わないで」って言ってたのね。それ聞いてクリストファー・ノーランどうかしてる」って思ったけど(笑)。

インターステラー(字幕版)

プライム会員は追加料金なしで視聴可

要するに、自然がいいとか世間一般に認められている常識的なことすらも曖昧にしていくじゃない?宮崎さんは。「自然と科学文明、どっちを選ぶ」ってことになっても、対立させたままでほったらかしにしたりするわけだけど、そういうことを言っちゃうと伝わらないんだね、普通の人には。でも、本当はそういうものなんだよ。どっちかなんて選べないもん。「戦争は反対、でも戦車や戦闘機は好き」ってことが、本当に伝わらないのはビックリした。だから、俺が戦車博物館へ行って喜んでる話をすると、すぐ「戦争が嫌いな人だと思ってたのに!」みたいなツイートが飛んでくるんだよね。本当にもう、イヤになっちゃうよ(笑)。みんな何もわかってないw


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