最近、とある外国人の「日本映画のレベルは本当に低い!」という発言が話題になっているらしい。英国の映画製作・配給会社の代表を務めているアダム・トレルさんによると、「以前はアジア映画の中で日本の評価が一番高かったけど、今では韓国、中国、台湾やタイなどにお株を奪われて、日本映画はレベルがどんどん下がっている。ちょっとやばいよ」とのこと。
さらに、昨年公開された実写版『進撃の巨人』を取り上げ、「日本映画の大作、例えば『進撃の巨人』はアメリカのテレビドラマっぽくて凄くレベルが低い。何でみんな恥ずかしくないの?」などと屈辱的な発言を連発し、日本映画を徹底的に批判したのである。
www.sankei.com
この意見に対し、日本の映画関係者から反論があった。ツイッターに投稿されたコメントを読むと「”今の日本映画はつまらない”とか言う人間は、予算の無い現場でスタッフがどれほど頑張っているか、その苦労を知ってんのか!?」などと、かなり激怒しているらしい。
だいたい「今の日本映画はつまらない」とか「神目線」言う人間は、例えば予算のない現場で制作のスタッフがしょぼい弁当をリカバーするために必死で味噌汁作ってキャストやスタッフを盛り上げようする矜持すら知らない。俺はそんなやつらは一切信じない。勝手にほざいてろ。
— 福田裕彦 正直、味噌汁はそんなに飲まん (@YasuhikoFK) 2016年4月9日
ところが、この反論を見たネットユーザーから、「現場の苦労と作品の良し悪しは関係ない」「感想や批判から逃げてるだけだろ」などの意見が相次ぎ、「日本映画側を擁護」どころか、逆に炎上する騒ぎとなってしまった。
こんな映画の面白さに1ミリも関係しない精神論が反論になると思ってるのが製作ないし批評の一端を担っていて、「信じない」「勝手にほざいてろ」ならばそりゃあ面白くなるはずがない。 https://t.co/WY8r3PKVWH
— こなたま(CV:渡辺久美子) (@MyoyoShinnyo) 2016年4月10日
togetter.com
世間の反応を見てみると、アダム・トレルさんの「今の日本映画はレベルが低い」という発言に対して、「そんなことはない!」との意見がある一方、「悔しいけどそれが現実」「認めざるを得ない」と考えている人も少なくないようで、様々な議論が交わされているようだ。
個人的な意見としては、実写映画版『進撃の巨人』を目の前に突き付けられて「恥ずかしくないの?」と問われれば、「とても恥ずかしいです…」としか言いようがないんだけど(笑)、まあそれはそれとして「昔の映画に比べてレベルが下がってる」という説には異論が無くもない。「どういう作品を対象にしてるんだ?」とかね(少なくとも『進撃の巨人』を日本映画の代表みたいに思って欲しくはないなぁ)。
言うまでも無く、最近の日本映画にも優れた作品はたくさん存在するわけで、ただ単に「この外国人がそういう”良く出来た邦画”を観てないだけなんじゃないか?」という意見も当然あるだろう。
ただ、日本映画のレベルが下がった理由として、アダムさんは「予算不足」や「製作委員会方式の弊害」、「映画評論家が作品をきちんと批判していない」などの問題点を指摘していて、「なるほど、それは確かにそうかもしれないな」と思える部分も多い。さらに、僕はそれらの理由に加え「テレビ局の責任」もあるんじゃないかなぁと感じたので、以下に詳しく書いてみる。
●映画とテレビ局の関係
まず、日本国内の歴代興行収入ランキングで「アニメを除いた実写邦画作品」を見てみると、1位は174億円を稼いだ『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』、2位は110億円の『南極物語』、3位は101億円の『踊る大捜査線 THE MOVIE』となっており、トップ3が全てフジテレビの製作だ。
さらに、4位以下は『子猫物語』(フジテレビ)、『ROOKIES 卒業』(TBS)、『世界の中心で、愛をさけぶ』(TBS)、『HERO』(フジテレビ)、『THE LAST MESSAGE 海猿』(TBS)、『花より男子ファイナル』(TBS)という具合に、実写日本映画の歴代上位はほぼテレビ局の映画で占められていることがわかる(興行の順位では宮崎アニメの圧勝だけど)。
●映画製作のきっかけはフジテレビ
では、テレビ局が映画を作るようになったのはいつからだろう?と思って調べてみたら、1969年に公開された『御用金』という時代劇が最初らしい。監督は五社英雄、出演は仲代達矢、丹波哲郎、司葉子、浅丘ルリ子、田中邦衛、夏八木勲、西村晃、東野英治郎など、豪華なスタッフが集結し、国内外で大評判になったという。
この映画を作ったフジテレビは、テレビ局として史上初となる劇場用映画製作への進出を果たし、以降の日本映画界を牽引していくことになる。その大きな転換点が、1983年に公開された『南極物語』だ。
「南極大陸に取り残された兄弟犬タロとジロが、1年後に越冬隊員と再会する」という実話をベースに創作されたこの映画は、国内で1200万人の観客を動員し、当時の日本映画の歴代映画興行成績(配給収入)1位を記録するなど、史上空前の大ヒットを叩き出した。
この大ヒットの要因は、フジテレビがメディアの底力をフル活用した「大規模な宣伝効果」のおかげと言われている。フジサンケイグループの総力を結集した大々的なキャンペーンが連日のように繰り広げられ、『笑っていいとも!』を始めとしたあらゆるテレビ番組にもタロとジロが出演しまくり、視聴者から「電波の私物化だ!」とクレームが来るほどだったという。
●テレビ局の快進撃
『南極物語』の大ヒットによって「映画ビジネス」のコツを掴んだフジテレビは、『ビルマの竪琴』や『私をスキーに連れてって』など、次々とヒット作を連発する。そして、第二の転換点が1998年に公開された『踊る大捜査線 THE MOVIE』だ。
この映画は劇場オリジナル作品ではなく、テレビで放映されていたドラマシリーズを映画化したもので、「テレビ番組の映画化なんて当たるはずがない」という当時の常識を覆し、とてつもない大ヒットを記録した。これに驚いたのが他局のテレビ関係者である。「うちもやらねば!」と続々と映画に乗り出し、以降、テレビ局各社による新たな映画製作の動きが加速していったのだ。
さらに、2003年には『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』が公開され、174億円という凄まじい興行成績を樹立!この大記録はいまだに破られておらず、現在もなお邦画実写作品の歴代1位に君臨し続けている。
これをきっかけとして、「テレビ局が映画界をリードする流れ」が本格的に始まった。日本テレビは『ALWAYS 三丁目の夕日』、『デスノート』、『20世紀少年』など、TBSは『世界の中心で、愛をさけぶ』、『いま、会いに行きます』、『日本沈没』など、テレビ朝日は『トリック劇場版』、『相棒 劇場版』、『男たちの大和/YAMATO』など。
各テレビ局が映画を作り、それを自社のメディアで繰り返し宣伝し、多くの観客を呼び込んで大ヒット…という手法が定着していったのである。それは、これまでの「洋画が邦画よりも強い」という力関係が逆転し、完全に「邦高洋低」の時代へ突入したことを意味していた。
●テレビ局が作る映画の問題点
これだけを見てみると、「別に悪いことじゃないじゃん」って感じかもしれない。確かに、自国のコンテンツがヒットするのはいいことだし、業界全体が活気づくのも歓迎すべきことではある。しかし、実はいくつかの問題が潜んでいるのだ。
そのうちの一つが、冒頭で取り上げた「外国人の目から見るとレベルが下がっているように見える問題」だろう。こういう風に見える原因は、日本のテレビ局が作っている映画の多くが、日本人にしか分からない、あるいは日本人だけが楽しめる内容に特化しているからだと思われる。
では、なぜそんな内容になってしまうのか?テレビ局が製作する映画にヒット作が多いのは、宣伝の力も当然あるが、それだけではない。テレビ局のスタッフは、常に高い視聴率を取ることをビジネスモデル的に背負わされている。
そのため、どんな映像がウケてどんなストーリーがヒットするか、今の日本人に最適なコンテンツを日々リサーチし続けている。つまり、ヒット作を生み出すノウハウを知り尽くしているわけで、そのテレビ局的なノウハウが今の日本映画に投入されているのだ。
しかし、こういう手法で作られた映画は当然ながら海外の観客にはウケないし、面白いと思ってもらえない。日本人の琴線に触れる要素のみで構成されているため、日本の観客に対して強くアピールできる反面、海外の観客は興味を示さないし、それどころか「バイヤーに作品を買ってもらえない」という状況にすら陥っているのだ。
このような現象は、黒澤明や小津安二郎の時代にはあり得なかったことである。それ故に最近の邦画を観た外国人は「今の日本映画は…」みたいな感想になってしまうのだろう。
これに対して、「いや、ちょっと待て。俺は日本人だけど『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』を観て1ミリも面白いとは思わなかったぞ!」という人がいるかもしれないが、だったらなぜそんな映画が邦画実写映画の歴代ナンバーワンになっているのか?その理由を良く考えてもらいたい。
●『踊る大捜査線』の大ヒットがもたらした功罪
テレビ局が映画を作るようになって、日本映画は活気を取り戻した。それは間違いなく”功”だと言える。一方、”罪”の面は先に述べたように「日本の国内向けに特化してしまったこと」。そしてもう一つは、「観客の志向を大きく変えたこと」だろう。以下、日本経済新聞社の白木緑さんが『踊る大捜査線 THE MOVIE』について語ったコメントより抜粋してみる。
今の日本映画の多くは、簡単に答えが出るのものばかりです。「泣ける」とか「笑える」とか、一言で片づけられるもの。そういう、「安直な感動」とでもいうべき映画がヒットするのです。人生について深く考えさせられる映画に足を運ぼうという人は、以前より減っていると思います。『踊る大捜査線 THE MOVIE』には、観客をそんな風に口当たりの柔らかい作品に慣らしてしまった”罪”があります。
本当の”映画的興奮”とは、複雑で、噛めば噛むほど味があって、噛み切れないし飲み込めないというような作品にこそ宿ると思うのですが、今の観客は「そういうものは別にいらない」「面倒くさい」と思うようになってしまったのです。
昔は「テレビドラマみたいな映画」というのは、決して褒め言葉ではありませんでした。しかし今では、むしろ若い人たちが観たい映画の代名詞になっているのです。ここからわかるのは、観客の志向が、「すでに知っているものにお金を払う」という風に変わっているということです。
(「『踊る大捜査線』は日本映画の何を変えたのか」より)
このコメントを読むと、日本映画が衰退した要因は「映画を観に行く観客側にもあるんじゃないか?」と思えてしまう。確かに、テレビ局が作った映画のおかげで邦画の観客動員数は以前より増えた。しかし、白木緑さんによると「彼らは映画ファンではない」という。
彼らにとって映画とは、ゲームやアニメや漫画やネットやテレビと同列にある”コンテンツ”の一つで、「映画を観に行っている」という自覚が無いそうだ。たまたまテレビでやっていたドラマを劇場でもやっているから、「じゃあ観てみようか」となっただけ。つまり、”観客のリテラシー”の問題なのだ。
そしてこのことは作り手側も認識しており、『踊る大捜査線 THE MOVIE』はわざとテレビドラマと同じ方法論で作られたという。普通なら「映画らしい内容に作り変えよう!」となるところを、亀山千広プロデューサーの意向で「テレビ版と同じにする。それこそが、テレビ版のファンが求めているものであり、彼らに対するサービスなんだ!」となったそうだ(そもそもスケジュール的に映画を撮る余裕が無かったらしい)。
こうして、観客に「2時間のテレビドラマでもいいや」「むしろそれが観たい!」と思わせてしまったことが、大ヒットに繋がったと同時に日本映画のレベルが低下した一因にもなっている…というのが白木さんの意見で、だとすれば実に皮肉な結果と言わざるを得ない。
●日本映画の劣化が止まらない
では、業界関係者はこのような現状をどう思っているのだろうか?「『踊る大捜査線』は日本映画の何を変えたのか」の中で、映画監督の荒井晴彦さんが「日本映画の劣化が止まらない」という凄いタイトルの文章を掲載していたので、以下に概要を抜粋してみる。
『踊る大捜査線』が当たって以降、映画を作る時もテレビのスタッフを起用するようになりました。それまでは、テレビ局が映画を作る際は、出資はするけれど、撮るのは映画のスタッフにまかせるのが慣例でしたが、『踊る』以降は映画の監督じゃなくても大丈夫だということになった。「映画の監督がつまらん作家性を出すよりも、テレビのスタッフが映画もやった方がかえって当たる」というわけです。
『踊る大捜査線』以降、日本映画界は興行的に息を吹き返したと言われています。確かにスクリーン数は増えているし、洋画の比率と邦画の比率では、邦画の方が興行成績はいいようです。でもスクリーンに映っているのは映画に似たものであって、本当の映画ではない。どんなに興行成績が良くても、全体の質としては劣化していると言わざるを得ません。やはり『踊る』の大ヒット以降、どんどん作り手が劣化し、観客も劣化しています。ひどい状況です。
(「『踊る大捜査線』は日本映画の何を変えたのか」より)
という具合に、荒井晴彦さんは今の日本映画界に対して「作り手も観客も劣化している」と嘆いているようだ。特に、テレビ局の人間が映画のスタッフに成り変って映画を作るようになったことを不満に感じているらしい。う〜む…
思うんだけど、「邦画を観に来る観客が増えた」と喜んでいても、実は「映画ファンの総数」は変わってないんじゃないだろうか?ただ単に、「映画に興味は無いけれどテレビが好きな人」がたくさん劇場に来ただけで、それを「よっしゃ!ヒットさせるコツを掴んだぞ!」と思い込み、テレビ局がそういう人たちに向けて「ウケる映画」を量産しているうちにどんどんレベルが低下して…という状況なんじゃないのだろうか?
荒井晴彦さんによると、それはもはや「映画に似たものであって、本当の映画ではない」ということらしいが、”大ヒット”という甘い果実と引き換えに、映画にとって”大切な何か”を失ってしまったような気がするなあ。
●「映画はビジネスである」という考え
一方、このような批判に対し、『踊る大捜査線 THE MOVIE』を作った亀山千広プロデューサーは次のようにコメントしている。
「テレビみたいな映画」という批判は、つまるところ「映画とは誰のものか」という議論に行き着くと思います。僕としては、『踊る大捜査線 THE MOVIE』もたくさんある映画のジャンルの中の一つに過ぎません。僕が映画館に通ってハラハラドキドキしながら見ていたものの中には、当然ATGのようなアート系の作品もあったし、大メジャーなハリウッド映画もあった。
だから、芸術とか文化の邪魔をする気はないし、もちろんバカにもしていないし、心底素晴らしいものだと思っている。でも僕はテレビ局の人間だから、安心して家族で見られる映画があるのは、決して悪いことではないと思っています。お客さんもそうなのではないかと思いたい。
僕はハリウッドの人間ではないので本当のところは分かりませんが、こちらから垣間見える雰囲気で言うと、向こうは娯楽作品と芸術作品が共存しているように見えます。なぜそれが可能かというと、まずビジネスがベースにあるからです。
商業的に成功しなければ、何も始りません。それがあって初めて芸術作品が生まれてきたり、新人監督が脚光を浴びるようになったりするんです。もしビジネスとしての映画が崩れたら、映画文化は停滞してしまう。新人監督が出てくることもないだろうし、芸術作品がスポットライトを当てられることもなくなってしまうでしょう。だからまずは、ビジネスのベースがしっかりできていることが重要なのです。
(「『踊る大捜査線』は日本映画の何を変えたのか」より)
商業映画において「ヒットさせること」は何よりも重要であり、そのために観客が求めるものを分析して提供する…という行為自体は何も間違ってはいない。そして亀山プロデューサーは「芸術作品を作ることはもちろん大事。でもそういう映画を作るためには、日本の映画産業が儲かってなければどうにもならんでしょ?」という考えらしい。
これは「全く正しい」ような気がするんだけど、実際に日本映画の現状へ目を向けると、「娯楽作品と芸術作品が共存している」ようには見えないんだよねぇ。もちろん「芸術作品がスポットライトを当てられている」ようにも見えない。相変わらず、興行ランキングの上位は「アニメ」と「テレビドラマの劇場版」と「漫画の実写版」で占められている。それどころか、こういう映画ばかりに注目が集まって、芸術作品の多くは存在すら知られていないのだ。これをどう判断すべきなのだろう?
(「日本映画製作者連盟」より)
●映画とテレビの違いとは?
さて、テレビ局が日本映画界にもたらした様々な影響について書いてきたわけだが、最後に「映画とテレビの違い」について自分なりの考えを書いてみたい。
日本のテレビ番組は「主婦が家事をしながら見ていても内容が理解できるぐらい、分かりやすくなければならない」という不文律があり、映画を作る際にも「出来るだけ分かりやすく」という原則に則っているらしい。
それ自体は別に悪いことではないと思うが、日本の映画を観ていると、登場人物が自分の心情や起きている状況を「全てセリフで説明する」という、不自然な描写が堂々と出て来てウンザリすることが多々あるのだ。正直、これは非常にツラい。
さらに、主人公が大げさな身振り手振りで演技する「過剰な芝居」や、悲しいシーンで悲しい音楽を流す「泣かせる演出」など、最近の日本映画は説明過多なんじゃないの?と思ってしまう作品がとても多い。果たして、そこまで分かりやすくする必要があるのだろうか?
私見だが、映画とは「観客に何かを考えさせるメディア」だと思う。例え意味の分かりにくいシーンがあったとしても、観賞後に皆で色々なことを話し合ったり、一生懸命考えることによって、いつまでも心に残るものだし、心に残っている限り、その映画は観た人にとって”価値がある”ということなのだ。
一方、テレビは「不特定多数の視聴者に等しく情報を提供するメディア」であるが故に、どうしても「分かりやすさ優先」になってしまう。そしてテレビ局が作った映画にもそのような傾向が見受けられ、誰が観ても良く分かる内容になりやすい。でも、そういう映画って「楽しいけどすぐに忘れてしまう」パターンが多いような気がするんだよねぇ。
もちろん作品によってそれぞれ内容が異なるので、「どちらが面白いか」なんてことは一概には言えない。テレビ局が作った映画にも、良い作品はたくさんあるだろう。ただ、映画とテレビの大きな違いは、まさにそういう部分だと僕は思う。そして、だからこそ映画は面白いと思うのだ。
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