ひたすら映画を観まくるブログ

映画やアニメについて書いています

『となりのトトロ』ができるまで

宮崎駿監督『となりのトトロ』

宮崎駿監督『となりのトトロ


どうも、管理人のタイプ・あ~るです。

さて本日、金曜ロードショーにてとなりのトトロが放送されます。ご存知、宮崎駿監督が作った劇場アニメで、1988年の公開から32年経っているにもかかわらず、いまだに多くの人から愛され続けている人気作です。

しかし、今でこそ名作として評価されている『となりのトトロ』ですが、公開当時や制作中には色々と大変なことが起きていたようです。

というわけで本日は、映画『となりのトトロ』が誕生するまでの様々なエピソードをご紹介しますよ。

 

トトロのアイデアが生まれた時期は意外に古く、1975年頃だそうです。当時、高畑勲監督とタッグを組んでTVアニメアルプスの少女ハイジを成功させた宮崎さんは、次回作母をたずねて三千里の準備中でした。

そんな時、「自分はこのままアニメ制作の一スタッフとして終わってしまうのか?」「何か”自分の作品”と呼べるものを作りたい」という思いが芽生え、複数のイメージボードを描いたという。

それは「赤い傘を持ってバス停に佇む一人の少女と、その隣に立っている大きなオバケ」や、「巨大なネコの姿をしたバス」など、まさしく『となりのトトロ』の原型でした。

宮崎駿監督『となりのトトロ』

宮崎駿監督『となりのトトロ

しかし、当時は世に出ることなく、その後、宮崎さんは『母をたずねて三千里』『未来少年コナン』『ルパン三世 カリオストロの城』など次々と色んなアニメ作品に関わっていきました。

そして4年後の1979年には、当時、宮崎さんが在籍していたアニメスタジオ(東京ムービー新社)にて日本テレビの「スペシャル番組」的なアニメの企画が立ち上がり、再びイメージボートを執筆。

「少女が庭で小さなトトロに出会う」などのエピソードが描かれ、キャタクターも「主人公の少女(メイ)、父親、隣の家の少年(カンタ)」や、「大中小のトトロ」「ネコバス」「ススワタリ(マックロクロスケ)」などがすでに登場していたようです。

宮崎さんはこれらのイメージボードを会社に提出したものの、人気漫画のアニメ化ではなく、地味なオリジナルストーリーである点などが敬遠され、残念ながら実現には至りませんでした。

こうして『となりのトトロ』のアイデアは、再び宮崎監督の机の引き出しにしまい込まれてしまったのです。しかし、それからさらに7年後の1986年、ついにトトロの企画が動き始めました!

宮崎駿監督『となりのトトロ』

宮崎駿監督『となりのトトロ

当時、スタジオジブリは『天空の城ラピュタ』を公開し終えたばかりで、早くも「次回作はどうしよう?」と頭を悩ませていたらしい(その頃のジブリは、社員の給料や経費などを制作予算から捻出する方式だったので、新作を作らないとスタジオを維持できないため)。

そこで、宮崎監督が描いたイメージボードを過去に見ていたプロデューサーの鈴木敏夫さんは「宮崎さんが長年温めていたあの企画をやろう!」と思い付きました。ところが、「次はトトロをやりませんか?」と宮崎監督に提案すると「あれは俺よりも高畑さんがやった方がいいよ」と断られてしまったのです。

宮崎監督によると「自分は『トトロ』のキャラクターは考えたけれど、ストーリーは考えてないし、どういう映画にするかも何も決めていない。こういうのをやらせたら高畑さんの方が絶対にうまいはずだから、高畑さんが中心になってやればいいんだ」とのこと。

そこで鈴木さんは高畑監督に『となりのトトロ』を提案しますが、一向に首を縦に振りません。宮崎さんも一緒になって説得を試みるものの、全く引き受ける様子が無いため、さすがに二人とも諦めざるを得なかったそうです(もし高畑監督がトトロを作っていたら、どんな映画になってたんでしょうねw)。

 

というわけで結局、『となりのトトロ』は宮崎さんが監督することになりました(まぁ、もともと宮崎さんが考えていた企画ですからね)。そして、ここからいよいよ本格的な制作が始まる……かと思いきや、話はそう簡単に進みません。徳間書店側が難色を示したのです。

曰く、「『風の谷のナウシカ』とか『天空の城ラピュタ』とか、観客が望んでいるのはそういう冒険活劇ファンタジーだろう」「昭和30年代の日本を舞台にしたオバケと子供の物語なんて誰が観たがるんだ?」と。

つまり、徳間書店としては「宮崎監督に新作アニメを作ってもらうのはいいけれど、内容をもう少しどうにかして欲しい」ってことなんですね。そこで鈴木さんは考えました。「『トトロ』1本だけで弱いなら、高畑監督にも何か作ってもらって2本立てにすればいいんじゃないか?」と。

宮崎駿監督『となりのトトロ』

宮崎駿監督『となりのトトロ

こうして高畑監督が火垂るの墓を作ることになり、ようやくアニメ制作が始まる……かと思いきや、鈴木さんがこの2本立て案を上司に報告したところ、「『トトロ』は”オバケ”で、さらに同時上映が”墓”の映画だと?こんなのヒットするわけないだろ!」と大激怒。

鈴木さんによると「日本の映画業界は”墓”という言葉に神経質で、”墓”がタイトルに付いている映画は極めて少ない」とのこと。確かに、パッと思いつくのは『八つ墓村』とか、どちらかと言えば怖いイメージですよね(ただし、松田聖子主演の『野菊の墓』やコメディ映画の『お墓がない!』など、全くないわけではない)。

でも鈴木さんは諦めることなく、この「オバケと墓の2本立て企画」を『ナウシカ』や『ラピュタ』を上映した東映に持ち込みました。しかし「うちでは上映できません」とあっさり断られ、次に東宝へ持ち込むものの、これまたアウト。どちらの会社も「オバケと墓じゃ売れないよ」との理由で拒否されてしまったのです。

「せっかく宮崎駿高畑勲の映画を作れると思ったのに…」と落胆する鈴木さん。だがしかし!ここで窮地を救ったのが、徳間書店の社長の徳間康快です。徳間社長は東宝へ乗り込むと、「この2本立てじゃヒットしない」と渋る相手に向かって、「じゃあ『敦煌』を東映に持っていくぞ!」と脅したらしい。

敦煌』とは、当時東宝で配給が決まっていた製作費35億円の歴史超大作で、これを東映に持って行かれたら東宝は大変なことになってしまいます。なので仕方なく東宝が「オバケと墓の映画」を引き受けることになりました(脅迫じゃんw)。こうして、無事に(?)上映する劇場も決まり、ようやく制作開始かと思いきや……

宮崎駿監督『となりのトトロ』

宮崎駿監督『となりのトトロ

ジブリは『天空の城ラピュタ』を作る時にも膨大な作業に悪戦苦闘し、公開日ギリギリにやっと完成したぐらいなのに、2本同時制作なんて可能なのか?そもそも作業スペースが足りないだろ!など、様々な問題が噴出。

「とりあえず、もう一つスタジオを確保しなければ!」ということで、慌てて制作担当者が探しに出かけるものの、条件のいい部屋がそんなにすぐ見つかるわけがありません。担当者の上司も「見つかるまで帰ってくるな!」と長期戦を覚悟していた模様。

ところが、不動産屋に向かう途中で偶然「改装工事中」と書かれた建物を発見。気になって中を覗いてみるとスタジオとして使うのに都合がよく、条件にも合いそう。すぐにジブリに引き返して「見つかりました!」と上司に報告すると、「お前、真面目に探したのか!?」と怒られたそうです(「そんな簡単に見つかるはずがない」と思ってたんでしょうねw)。

後日、宮崎駿監督もその建物を見に行き(ジブリからたった80メートルしか離れていなかった)、フロアに入って「広くて綺麗で窓もいっぱいあって、いいじゃないですか」と気に入った様子。

さっそく吉祥寺のスタジオジブリを「第1スタジオ」、新しく借りた部屋を「第2スタジオ(トトロ班分室)」と名付け、宮崎監督は第2スタジオへ引っ越し。こうして1987年4月13日、ようやく『となりのトトロ』の制作がスタートしたのです。

宮崎駿監督『となりのトトロ』

宮崎駿監督『となりのトトロ

しかし、制作を開始してからも宮崎監督と高畑監督が優秀なアニメーター(近藤喜文)を取り合ったり、当初は60分程度の中編映画の予定だった『となりのトトロ』が最終的に88分になったり、次から次へと予期せぬ事態が巻き起こりました。中でもスタッフを悩ませたのが「茶カーボン」です。

現在はデジタルに移行しているので使うことはありませんが、昔は紙に描いたキャラの線をセルに転写する際に「カーボン」と呼ばれる薄いシートを使っていました。これは基本的に「黒カーボン」が当たり前で、アニメのキャラの線は昔から”黒”が常識だったのです。

ところが、『となりのトトロ』では色指定の保田道世さんと宮崎監督、さらに『火垂るの墓』の高畑勲監督も加わって綿密な打ち合わせを繰り返した結果、「茶カーボンでいく」との結論に至りました。

昭和30年代の日本の風景には、黒よりも明るい茶色の方が合うだろう…と考え、実際に黒の線でもテストしてみたのですが、圧倒的に茶色の方が美しかったそうです。以下、背景美術を担当した男鹿和雄さんのコメントより。

なぜ茶色が合うかというと、実際、5月でも真夏の盛りでも、草を見ていると茶色が結構あるんです。枯れた葉っぱとかが必ずあるんですね。だから、自然の草むらや森を描く時に、グリーンだけで描くよりも、枯れた茶色をどこかに入れると、よけいグリーンが綺麗に見えるんですよ。

ロマンアルバムとなりのトトロ」より)

こうして「茶カーボン」が採用されたわけですが、この後、様々な難題が待ち受けていました。まず、茶カーボンは通常の黒カーボンよりも値段が高く、倍以上のコストがかかります(特注品のため)。10枚や20枚ならともかく、『となりのトトロ』の作画枚数は4万8千枚以上ですから、これはなかなか厳しい。

また、今までならトレスマシンで転写できていた線が、茶カーボンではトレスできない、あるいは線が薄い等の問題が発覚(普通はアニメーターがハッキリした線を描いた方がトレスしやすいんだけど、茶カーボンは逆に強い筆圧だと線が出にくいらしい)。

そのため、トレス線が綺麗に出ない絵はすべてリテイクとなり、作画スタッフは大変な苦労を強いられたそうです。

さらに、ジブリ社内のトレスマシンでは転写できても、外注の仕上げスタジオでは線が出ないというケースが続出!仕上げスタジオに頼んでマシンのパーツを新しく交換してもらったり、何とか対処しようとしましたが、全てのスタジオにまではいき届かず、結局ジブリでトレスしてから仕上げに回すことになりました(制作進行の仕事が倍増!)。

そんな感じで、現場はかなり大変なことになっていたようですが、茶カーボンを使用した映像は優しくて暖かく、『となりのトトロ』独自の美しさを生み出すことに成功。

宮崎駿監督『となりのトトロ』

宮崎駿監督『となりのトトロ

こうして映画は無事に完成し、1988年4月16日に全国の劇場で公開されました。しかしその結果は……残念ながら関係者の期待を超えることは出来なかったようです。配給収入は5億8千万円で、『風の谷のナウシカ』の7億4千万円よりも大幅に落ち込み、興行的には”失敗”してしまったのですよ(プロデューサーもガッカリ)。

ところが…

劇場でヒットしなかったにもかかわらず、その評価は絶賛の嵐!1988年度「キネマ旬報ベストテン」で日本映画第1位を獲得した他、毎日映画コンクールで日本映画大賞、第31回ブルーリボン賞で特別賞、第24回映画芸術ベストテンで日本映画第1位など、ありとあらゆる国内の映画賞を総ナメにしました。

そして、97年にビデオが発売されると発売後わずか1ヶ月で100万本を売り上げる驚異的なセールスを記録し、2001年にDVDが発売されるとオリコンDVDチャートで前人未到の500週連続ランクインを達成!

さらに金曜ロードショーでテレビ放映されると、毎回毎回20%前後の高視聴率を叩き出し、「いったい何回トトロを観れば気が済むんだ!?」と他局の関係者を呆れさせるほどの人気ぶりを発揮したのです。

このように、公開当時はヒットしなかったけれど、観た人の評価は圧倒的に高く、長年に渡ってずっと愛され続けている作品が『となりのトトロ』であり、これこそがまさに名作の証と言えるのではないでしょうか。

 

●参考文献
今回の記事は以下の書籍を参照させていただきました

ふたりのトトロ -宮崎駿と『となりのトトロ』の時代-

となりのトトロ』で制作デスクを務めた筆者が体験した面白エピソードの数々を掲載
ジブリの教科書3 となりのトトロ (文春ジブリ文庫)

鈴木敏夫が語る制作裏話や半藤一利、中川李枝子ら豪華執筆陣が作品の背景を解説