ひたすら映画を観まくるブログ

映画やアニメについて書いています

なぜ日本の実写SF映画はメジャーになれないのか?

戦国自衛隊

映画『戦国自衛隊』より

どうも、管理人のタイプ・あ~るです。

先日、SNS上で「なぜ日本のSFは滅びたのか?」というツイートが話題になり、「面倒なSFオタクが文句ばかり言ってるからだよ!」とか、「そもそも日本のSFは滅んでなんかいないぞ!」など様々な意見が飛び交いました。

事の発端は『彼方のアストラ』というアニメのレビューに投稿された「批判的な意見」がきっかけだったようです。

その内容は「SF好きは見ない方がいい」「目が腐る」「科学もセンスオブワンダーもなかった」などで、要するに「こんなものはSFとして認められん!」的なツッコミをもの凄い長文で書きまくってたんですよ。

このレビューに対して、「こういう面倒くさいことを言う人がいるから、日本のSFは滅びたんだよ」と苦言を呈す人が現れ、さらにその発言に対し「ちょっと待て!日本のSFが滅びたなんて誰が決めたんだ?」「日本には今でもSFはあるぞ!」などの反論が噴出し、あーだこーだの激論になった…というわけです。

そして、ついには『彼方のアストラ』の作者本人までが参入し、「件のレビューの言いたいことは正しい」「その一方で僕は全ての項目に反論もできる」などとコメントする事態となってしまいました。

こうした「SFオタク」の細かいツッコミは昔から数多く見受けられ、「真空の宇宙で爆発音がするのはおかしい」とか、小説家の高千穂遙氏に端を発する「『機動戦士ガンダム』はSFなのか?論争」など、枚挙にいとまがありません。

まあ個人的には、『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』はSFだと思ってるし、どちらかといえば「細けえことはいいんだよ!」派なので、「あの作品はSFか否か?」みたいな議論は正直どうでもいいんですけどね(笑)。

基本的に日本のSFは、主に小説や漫画やアニメの分野で発展したと思っています。特にアニメにおける普及度たるやすさまじく、『攻殻機動隊』や『AKIRA』などが海外でヒットしたことを含めて世界的にも高く評価され、今や「日本を代表する優良コンテンツ」と呼んでも過言ではないでしょう(たぶん「日本のSFは衰退した!」とか言ってる人たちにとって漫画やアニメは対象外なんだと思う)。

ただし実写映画に関しては、正直「かなり厳しい状況」と言わざるを得ません。その理由を、アニメーション監督の押井守さんは以下のように分析しています。

SF映画”というのは基本的に舶来ものなので、外国の役者やコスチュームや特撮や音楽、さらには”英語である”ことまで含め、全部がワンセットで成立している。日本映画に特有のジャンルがあるように、アメリカ映画にも特有のジャンルがある。日本人にとって、西部劇ができないのと同じぐらいSF映画は難しい。

この押井監督の意見は、たしかに一理あると思います。ただ、「近未来SF」や「宇宙を舞台にしたSF」などはそうかもしれませんが、”SF”にも色んな種類があるわけで、一概に「日本で実写のSF映画は成立しない」とは言えないんじゃないのかな?と。

例えば、地質学者たちから綿密な科学考証を得て、大規模災害をリアルにシミュレーションして見せた『日本沈没』などは、まさに日本を舞台にした、日本人でなければ成立しないパニックSF映画でしょう。

また、近代兵器で武装した多数の自衛隊員たちが、ある日突然、戦国時代にタイムスリップし、現地の侍と壮絶な戦いを繰り広げる『戦国自衛隊』も、日本人ならではのアイデアに満ち溢れた見事なSF時代劇だと思います。

そう考えると、「日本でも実写のSF映画ってイケるんじゃね?」みたいな気がしなくもないんですが、現状はどうなのか?っていうと…。

ここ最近の、実写日本映画における人気ジャンルといえば、圧倒的に「ラブ・ストーリー」が多数を占めています(ラブコメ含む)。もう、「なぜこんなに恋愛映画を作る必要があるんだ!?」と困惑するぐらいの勢いですよ。

その次に多いのが、「主人公の身近な人が重い病気にかかって…」等の、いわゆる「難病もの」ですね(恋愛要素が入る場合もあり)。

その他、「親子の絆」とか「兄弟愛」みたいなものを描いた「人情ドラマ」や、「コメディ映画」、「学園ドラマ」、「サスペンス」、「ホラー」など様々なジャンルが存在する中で、「SF」というジャンルは……ほぼ見当たりません。

もちろん、単発では作られてるんですよ。後は低予算のB級映画とか。それでも少ない。『シン・ゴジラ』のような「怪獣映画」を「SF映画」としてカウントしたがる人もいますけど、SF映画を作ろう!」という明確な意図を持って作られた”純然たるSF映画はほぼ皆無です。

つまり、日本の実写映画における”SFというジャンル”は完全にマイナーな存在であり、ハッキリ言ってジャンルそのものがもはや絶滅状態に近い。

なぜこうなってしまったのか?というと、もちろん予算的な問題も大きいですが、一番の理由は「需要がないから」です。

SF映画を観たい」という観客が大勢いれば、映画会社も少々製作費が高くてもSF映画を作ろうとするでしょう。しかし、残念ながら日本の観客は「日本製のSF映画」にあまり興味がないらしい(というより「アメリカのSFに勝てるはずがない」「SFは海外製で十分」みたいな認識なのかも…)。

こういう傾向はSFに限らず、「アクション映画」にも同じことが言えます。海外でも活躍している某アクション監督によると「日本ではアクションものの作品を支えるだけの需要自体が少ない。香港映画などのアクション先進国では(女性も含めて)観客の目も肥えているし、作り手たちのレベルもおのずと上がっていくだけの基盤がある、しかし日本では、肉体を駆使したアクションが好きな人たちはそう多くない。アクション映画を作ってもあまり観客が来ないとなれば、自然と先細りになっていくだろう」とのこと。

最近、『ザ・ファブル』で見事なアクションを披露した岡田准一さんも「『SP』を撮った後に”アクション映画のオファーが来るかな?”と思って期待してたんだけど、全然来なかった(笑)。日本ではアクション映画が少ないですからね」と嘆いていたそうです。

SF映画は、そんなアクション映画よりもさらに状況が悪いのでSFファンは泣くしかない…っていうより、そもそもSFファンは日本の実写SF映画なんかに期待すらしてないのかもしれませんが(苦笑)。

そんなわけで、「日本のSFは滅びたのか?」という議論について個人的には「小説・漫画・アニメなどの分野で日本のSFは目覚ましい発展を遂げているが、実写SF映画に関しては相変わらずマイナーな存在で残念」という見解です。

いや、SFマニアが納得するような、ガチガチにハードな本格SF映画じゃなくてもいいんですよ。設定としてSF要素が入っている程度の「なんちゃってSF」でも全然構いません。何らかのSF的な見どころ(ガジェットとか衣装デザインとかCGとか特撮など)が含まれてさえいれば、それでいいんです。

そういう作品が1年に1本、あるいは2年に1本ぐらいの割合でコンスタントに公開されれば、一般の観客にも”実写SF”というジャンルが徐々に浸透していくのでは…と思ってるんですけどねえ。

なお、ジャンルとしての実写SFは依然として厳しい状況ではあるものの、個別の作品に関しては(過去から現在に至るまで)優れた映画がいくつもあるので、機会があればご紹介したいと思います。

『天空の城ラピュタ』 「ムスカは弾丸を撃ち尽くしていたのか?」問題を検証してみた

天空の城ラピュタ

映画『天空の城ラピュタ』より

どうも、管理人のタイプ・あ~るです。

先日、金曜ロードSHOW!宮崎駿監督の天空の城ラピュタが放送され、なんと17回目の放送にもかかわらず14・5%という安定した視聴率を記録し、根強い人気を見せつけました。

SNS上でも相変わらず盛り上がっていたようで、クライマックスで皆が一斉に「バルス!」と書き込む、通称”バルス祭り”が今回も実施され、「バルス」が世界トレンド1位を獲得したそうです。

さてそんな中、気になるツイートを見つけました。

劇中でムスカは「シータと話をしたい」というパズーの頼みを聞き入れ、「3分間待ってやる!」と許可するんですが、その後、持っていた銃の弾丸を入れ替えるシーンが映るため、「弾を全て撃ち尽くしていたから再装填の時間稼ぎで”待ってやる”と言ったのか」と思っていたんですね。

ところが…

要するに、「ムスカが持っている銃は装弾数が6発のリボルバーだが、劇中では5発しか発砲していない。つまりシリンダーにはあと1発残っており、ムスカは弾丸を撃ち尽くしてはいなかったのだ」ってことらしいのですよ。

えええ~!?マジですか!?弾切れだと思ってたんだけどなあ。というわけで、本日は色々気になるこの件を検証してみたいと思います。まず、ムスカの銃は本当に装弾数が6発なのか?」について。

ご存知のように『天空の城ラピュタ』は架空の世界が舞台ですから、使われている武器も現実世界のものと完全に一致しているとは限りません。

装弾数が5発の拳銃だって存在するし(日本の警察官が使用しているニューナンブも5発)、「最初から5発しか入っていなかった可能性」もあるわけですよ。なので『ラピュタ』の設定資料を確認してみました。それがこちらです↓

天空の城ラピュタ

ロマンアルバム天空の城ラピュタ』より

う~ん、これを見ると「口径:380 作動:ダブルアクション&シングルアクション 装弾数:6発」となっていて、ほぼ実在するエンフィールド・リボルバーNo.2と同じですね(ちなみに宮崎駿監督はこの銃が気に入っているらしく、『紅の豚』や『ハウルの動く城』など、他の作品にも登場している)。

さて、ムスカの銃が6連発であることは分かりましたが、では実際に6発の弾丸が装填されていたのでしょうか?もしかして、5発しか入っていなかったのでは?…ということが気になったので、排莢するシーンを確認してみました。

天空の城ラピュタ

映画『天空の城ラピュタ』より

おお~、ちゃんと6発の薬莢が描かれてる(笑)。もし1発撃ち残しがあるなら、このうちの1つには弾頭がついているはずですが、さすがにそこまでは確認できませんね(笑)。

次にムスカは本当に5発しか撃っていないのか?」について。これも実際に映像を見ながら確認してみましょう。

 

●1発目:パズーに向かって撃つ

天空の城ラピュタ

映画『天空の城ラピュタ』より

●2発目:パズーが走っている時に銃声が聞こえる

天空の城ラピュタ

映画『天空の城ラピュタ』より

●3発目:「王座の間」に入った時に撃つ

天空の城ラピュタ

映画『天空の城ラピュタ』より

●4発目:シータの左のおさげ髪を撃つ

天空の城ラピュタ

映画『天空の城ラピュタ』より

●5発目:シータの右のおさげ髪を撃つ

天空の城ラピュタ

映画『天空の城ラピュタ』より

数えてみると、確かに5発しか撃ってませんね。ということはやはり、ムスカの銃にはあと1発弾丸が残っていたのでしょうか…?

だがしかし!

宮崎駿監督が描いた絵コンテを見ると、ムスカが装弾する場面で「実はもう弾丸が無かった」とハッキリ書いてあるんですよ。

天空の城ラピュタ

天空の城ラピュタ』絵コンテより

絵コンテの役割は、アニメーターやスタッフたちに「このシーンではどんなことが行われているのか」を明確に指示するためのものなので、意味のないことは書きません。

しかもこのシーンの場合、「ムスカ装弾する」とだけ書いてあれば十分に意図が伝わるのに、なぜわざわざ「実はもう弾丸が無かった」などと書いたのでしょうか?

ここからは僕の推測になりますが、宮崎監督は「弾切れだった」と示すことでムスカのキャラクター”を表現したかったのだと思います。

「王座の間」に入って3発撃った後、恐らくムスカは自分の銃が弾切れになったことに気付いていたでしょう。なので、この時点で素早くリロードすることも可能だったはず(シータから距離が離れているので反撃される危険性も少ない)。

しかし、「待てよ。すぐにパズーがここへやって来るな…」と考えたのです。そこでムスカは何をしたか?銃の撃鉄(ハンマー)を「カチッ」と上げたんです(絵コンテにも指示有り)。

天空の城ラピュタ

天空の城ラピュタ』絵コンテより

エンフィールド・リボルバーNo.2は”ダブルアクション”という機能を持っていて、いちいちハンマーを上げなければ弾丸を発射できないシングルアクションとは異なり、引き金(トリガー)を引くだけでハンマーが起き上がり、そのまま引き切ることで発砲できるのです。

実際、シータを撃つシーンでもムスカはハンマーを上げずに、そのまま次の弾を撃っていました。ところが、パズーがやって来る直前に限ってわざとハンマーを上げているのです。いったいなぜか?

実はここがムスカの巧妙なところで、パズーが自分に銃を向けることを予想していたムスカは、敢えてハンマーを上げた状態でシータに銃を向け、「お前より私の方が速いぞ!」と”優位性”をアピールしていたのです。

なぜなら、ダブルアクションの状態で撃つよりも、ハンマーを上げた状態(シングルアクション)で撃った方がトリガーのストロークが短いので素早く、しかも確実に弾丸を発射できるからです(銃身もブレにくい)。

宮崎駿監督は、ムスカというやつは自分の銃に弾丸が無いとわかっている状態でも、ここまで冷静沈着にハッタリをかますことができるほど計算高くて狡猾な男なのだ」というキャラクター性を強調するために、わざわざ「実はもう弾丸が無かった」と絵コンテに書いたのでしょう。

さらに言うと、パズーの方も2発しかない弾丸を撃ち尽くして弾切れの状態でした。もちろんムスカはそのことを知りませんが、「パズーは撃ってこない」という確信があったからこそ、「シータと話がしたい」とパズーが要求した時に「(そう言うと思った)」みたいな顔をしながら「3分間待ってやる」と言ったのではないかと(実際は1分ぐらいしか待ってませんがw)。

つまり、このシーンは単純に「銃で撃つぞ!」と脅しているのでなく、「弾の出ない銃を持った二人の男が、それを悟られないように互いに相手を牽制し合う」という、非常に高度な駆け引き(?)が繰り広げられている様子を表現していたのですよ。

ただ、仮にそうだとすれば「じゃあムスカはどこでもう1発の弾丸を撃ったんだ?」という疑問が残りますよね。そう考えた時、気になるシーンが一つありました。「図2」を見てください。

天空の城ラピュタ

映画『天空の城ラピュタ』より

ここでは、パズーがムスカとシータを追いかけて通路を走っている、まさにその時にどこかで「ガーン!」と銃声が鳴っています。つまり、パズーも観客も見ていない場面でムスカは発砲しているのですよ。

ということは、同じように「パズーも観客も見ていない場面で発砲する」という状況が他にもあったんじゃないだろうか?と。では、いったいそれはどこなのか?

可能性があるとすれば図1から図3の間ですが、もしムスカがシータを追いかけている時に撃ったのなら、パズーにも観客にも銃声が聞こえるはずだし…。しかし、実は1ヵ所だけ聞こえない場面があったのです。それは、パズー自身が発砲した瞬間です。

パズーはムスカに撃たれた後、壁に穴をあけるために”大砲”を撃ちますが、「ドーン!」という大きな衝撃音を響かせているため、この瞬間にムスカが発砲したとしても、その音が聞こえなかった可能性が高いのですよ。

天空の城ラピュタ

映画『天空の城ラピュタ』より

つまり、ムスカはここで6発目(順番的には2発目)の弾丸を撃ったのではないか…?というのが僕の推測です。

もちろん、単純に「宮崎監督が数え間違えただけ(本当は6発撃たせるつもりだったが1発描き忘れた)」という可能性も否定はできません。

しかし、エンフィールドNo.2を他の作品に出すほど銃に詳しく、「実はもう弾丸が無かった」とわざわざ絵コンテに書くほど残弾数にこだわっている人が、そんな単純ミスをするとはちょっと考えにくいんですよねえ。

なので、個人的にはムスカは弾切れの銃で堂々とハッタリをかましていた説」を支持したいと思います(^.^)

 

※追記
ムスカの発砲数について、「元々は6発撃ってたんだけど、編集時に尺の都合で発砲シーンを1ヵ所カットしたのでは?」というコメントをいただきました。

確かに『天空の城ラピュタ』には上映時間を短くするためにカットされたシーンがあります。それはゴンドアの谷にいるシータのところへ、ムスカとその部下たち3人が歩いてくるシーンです(Cutナンバー422)。

天空の城ラピュタ

天空の城ラピュタ』絵コンテより

これは、地下の廃坑でパズーとシータが食事(目玉焼き+パン)をしている時に、シータが自分の過去を語る場面なのですが、背景も作画も描き終えフィルムとしてすでに完成している状態でした。

しかし、映画会社や映像ソフト会社などから「上映時間を2時間以内に収めて欲しい」という要望が宮崎監督のもとに多数寄せられ、仕方なくカットしたらしい。

実は『天空の城ラピュタ』が公開された1980年代当時、最新のメディアとしてレーザーディスク(LD)が登場し、様々な映画やアニメ作品がLD化されていたのです。

ところが、LDの容量は(CLV方式の場合)1枚につき最大で2時間しかなかったため、2時間を超える映画はディスクが2枚組となり、販売価格も上がってしまう。そのためメーカー側は「何とか2時間以内で!」と強く要望していたそうです。

しかし、宮崎監督は「”切れ切れ”と簡単に言うが、これ以上カットしたら映画がダメになってしまう」と頑なに抵抗し続け、「ナンバー422」以外のシーンは一切カットせず、最終的に『天空の城ラピュタ』は総尺数2時間4分4秒で公開されました。

というわけで、「カットされた場面はこれ以外に存在しない」と記録にも残っているため、「編集時に発砲シーンをカットしたんじゃないの?」という意見については「恐らくそういうことは無かっただろう」と思います。

 

『崖の上のポニョ』 「リサの車はマニュアルなのか?」問題を検証してみた

崖の上のポニョ

映画『崖の上のポニョ』より

どうも、管理人のタイプ・あ~るです。

先週、金曜ロードSHOW!宮崎駿監督の崖の上のポニョが放送されました。2010年の初放送時に29・8%という高視聴率をマークした本作ですが、5回目となる今回も安定した数字(12・5%)を記録した模様。

そんな『崖の上のポニョ』の放送中、SNSでは主人公の母親:リサが運転する車に注目が集まっていたようです。どうやら嵐の中を爆走するリサの軽自動車(通称リサカー)が「マニュアル仕様」ということに気付いた人たちが、「走り屋みたいだ!」「リサかっけー!」などと盛り上がっていたらしい。

崖の上のポニョ

崖の上のポニョ』を観た人のコメント

確かに、リサが車を発進させる場面は、左足でクラッチを切り、右足でアクセルを踏み込んで勢いよくダッシュしているように見えます。なので僕も以前から「リサの車はマニュアル車なんだろう」と思っていました。

ところが…

その後のシーンを注意して見ていると、シフトレバーがチラッと映るんですけど、一番上に「P」という文字が…。あれ?これってオートマ車のシフトレバーじゃないの???

崖の上のポニョ

映画『崖の上のポニョ』より

崖の上のポニョ

AT車のシフトレバー

気になった僕は(この映像だけではハッキリ分からないので)、宮崎駿監督が描いた『崖の上のポニョ』の絵コンテを確認してみました。すると…

「ブレーキペダルを踏ん張っていたリサの足、パッとはずしてサイドブレーキペダルを踏み込み、同時にアクセル踏み込む」と書いてるんですよ。

崖の上のポニョ

崖の上のポニョ』の絵コンテより

サイドブレーキペダルとは、手で引く「サイドブレーキ」ではなく、足で操作するタイプの、いわゆる「フット式のパーキングブレーキ」のことだと思われます。

つまり宮崎監督の指示では、リサの車のペダルは右から「アクセル」、「ブレーキ」、「サイド(パーキング)ブレーキ」となっていて、「クラッチ」がどこにも無いんですよ。

 

やっぱオートマ車じゃん!

 

要するにあのシーンは、クラッチを切ってたんじゃなくてパーキングブレーキを解除しながら車を発進させている状態」だったんですね。いや~、勘違いしてたわ(苦笑)。

というわけで、リサの激しいドライビングテクニックを見て多くの人が「マニュアル車」と思っていたようですが、どうやらオートマだったみたいです(^.^)



『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』は『エヴァンゲリオン』だった?※ネタバレあり

『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』と『エヴァンゲリオン』

ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』と『エヴァ

どうも、管理人のタイプ・あ~るです。

さて現在、劇場で公開中の3DCG映画ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』が(色んな意味で)話題になっているようです。

ドラゴンクエスト』と言えば、いまさら説明の必要もないほどの超有名ゲームで、1986年に第1作目がファミコンで発売されて以来、大人から子供まで絶大な人気を獲得してきました。

そんな国民的RPGドラクエが「初の映画化」となれば、ファンの期待も大いに膨らんでいたことでしょう。だがしかし!

観た人の評価は賛否両論…というより、今のところは圧倒的に「否」の意見が多数を占めている模様。その理由は、本作のクライマックスに仕掛けられた”どんでん返し”です。

詳細は省きますが、映画終盤に突然「ゲームの『ドラゴンクエスト5 天空の花嫁』をベースにした物語だと思っていたら、実はゲームそのものだった」という衝撃の真相が明かされビックリ仰天!

さらにラスボスが「この世界は現実じゃない。単なるゲームなんだよ」「こんなものに夢中になってないで、早く大人になれ!」みたいなことを訴えてくるわけです。まさに観る者の意表を突きまくる超展開ですが、これを目の当たりにした多くのドラクエファンが「ふざけんな!」と激怒しているらしいのですよ。

で、映画の構造的に『LEGO ムービー』との類似性を指摘する人や、あるいは『レディ・プレイヤー1』のラスト(主人公が「ゲームばかりしてないで現実世界に目を向けろよ」と語りかける)に似ている等の意見が上がっているようですが、そんな中、「これって『新世紀エヴァンゲリオン』じゃね?」という声もチラホラと…。

知っている人も多いと思いますが、『新世紀エヴァンゲリオン』は「ついに数々の謎が解明されるのか!」というファンの期待を最終回でぶち壊し、さらに劇場版でも「お前らアニメばっかり見てないで現実を見ろ!」と言わんばかりに客席の映像を映すなど、アニメ史に残るような超絶展開が話題となりました。

そういうメタ構造は、確かに『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』と似ているかもしれません。しかし、そもそも庵野秀明監督はどういう意図であのオチを提示したのでしょうか?

というわけで当時の心境を知るために、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(夏エヴァ)の公開後に行われた対談から、庵野監督の発言を引用してみます。

庵野 やっぱり『夏エヴァ』の作業は苦痛でしたね。あれは、自分が終わるためのものだったし、あとは付き合ってくれたスタッフがいい顔してくれればそれでいいという。この2点だけですから、お客が存在しないんですね。だから、公開後の騒ぎとかも僕にとっては何の興味もないんです。

ー それは、第三者が見ても見なくても良かったと?

庵野 良かった。興行的には大丈夫だったし、そういうことは僕にはもう一切関係なかった。

ー つまり、終わらせるというだけで完成ではなかったということ?

庵野 いや、終わることが完成でもあるんですよ。終われば良かったんです。あとは、テレビのリテイク作業は要するに後片付け。皿を片付けて棚に戻すだけですね。メインディッシュはすでに出しちゃったから、それを食うも食わないも僕にとっては関係ないんですよ。お客の前に皿を出すというのは、出した皿に関しては持てるものを全て出し切っているから、それでいいんです。

ー 客がそこで「マズイ!」と言ってガッシャ~ンとテーブルひっくり返して帰っても構わなかったと?

庵野 構わなかった。「マズい!」と貶されても「うまい!これは最高だ!」と褒められても、僕の心はもう動かない。まあ、褒められれば付き合ってくれた人たちに対しては嬉しいですけどね。それはいいことだと思います。スタッフに対する評価だから。自分自身の評価よりも、そっちの方が重要なんです。

ー 自分自身への評価は、庵野さんの上をスルスルと通り抜けていく?

庵野 僕にとって唯一の客はスタッフだったんですね。だから、スタッフがいい思いをしてくれたら、それで良かった。そこから先は存在しないんです。すごいクローズですよね。

ー 庵野さんのそういう発言に対して「プロじゃない」と言う人もいるのでは?

庵野 言わせとけばいいんですよ。その程度でしか物事を計れない人たちなんだから。

ー でも、そういう発言を聞いて「怒るか・怒らないか」を決めるラインっていうのは、わざと俺たちにひどい飯を食わそうとしているのか否か?ということだと思うんですが。

庵野 ひどい飯を出した覚えはないです。人に出す以上は、毒を混ぜるようなことはしません。出すときには、今できる中で最高級のものを、もし卵と冷や飯しかなかったら、それでできる卵チャーハンの一番いいやつを出す。その時に、それまでずっと甘いデザートばっかり食ってた人には、ちょっと塩を強くしたものを出すとか。それぐらいです。

ー TV版の『エヴァ』の最終回を見て思ったのは、「毒を混ぜられたか」ということだったんですが。

庵野 あれは、毒というよりも「そういうのを食った方がいい」ということです。

ー それは、自分も含めて?

庵野 自分も含めて。あとは、どんな皿を出しても怒るんだったら、可能な限り怒らせた方がいい。それはあるんですよ。中途半端が一番良くない。あと、同情を買いたくなかったっていうのも結構でかい。あそこで同情を買うのが一番ラクなんですよ。でも、それだけは嫌だった。同情されるぐらいなら、怒られる方がいい。それも徹底した方がいい。だから、一番客が怒るのをやる。その方が、食った方もスッキリするんです。一口食って「マズい!」って言った方が、お客としては嬉しいわけでしょう。こんなマズい飯を食わされたって、人に話題を提供できるじゃないですか。

ー そこには情動があるから。

庵野 それはコントロールだと思うんですよ。そこも含めてのものだと僕は思う。客にものを出す以上は、そこまで計算しないと。少なくとも予測は必要。あとは、確率と”客筋”みたいなものを見極めること。TV版『エヴァ』の時の客筋というのは、あれぐらいでちょうどだと。それでも足りない部分というのは、さらにその後、塩をまいて帰す。それぐらいやらないと、僕の気も済まなかったし、客の気も済まないだろうと。

そういう意味では、常に無意識にそっちのほうへ行っちゃうんですよね。猛毒を混ぜているつもりはないです。少なくとも致死量には達していない。これ以上混ぜたらマズいというのを、ギリギリ自分の中で持っていると思うんですけど。

つまらなかったのは(そういうコントロールを)超える人があまりいなかったこと。でも、予測の範疇外という人はいたし、そういうことに対してわかってくれた人も少しいてくれました。そういう人がいてくれただけで嬉しかったですね。

ー 『夏エヴァ』に関しても?

庵野 いや、『夏エヴァ』にはそういうのすらない。それは、お客さんが「おいしいです」ってイイ顔してくれた方が、もちろん嬉しいですよ。嬉しいけど、根本はもっと関係のないところまで行っちゃってるんで。わかんないだろうなあ、こういう感覚って、他の人には。やっぱり難しい。わかんないと思いますよ。

先日お会いした藤井フミヤさんも、「自分が出したアルバムは、出した後はもう聞かない」って言ってました。そういう感覚だと思うんです。アルバムを出すまでは、本当にガーッとやるだろうけど、出した後というのは、それを聞いてくれるも聞いてくれないも…。少なくとも自分ではもう聞き返さないし。それに近いです。ただ、当たった方が次が作りやすくなる。だから、当たらないよりは当たった方がいい。あとは、元は取らなければいけない。それは、お金を出してくれた人に対する最低限の礼だと思う。『エヴァ』に関しては、もう十二分に元を取っているから、もういいです。

月刊アニメージュ 1998年2月号」のインタビューより

 この庵野さんの発言を読む限り、TV版の最終回は「観ている人を徹底的に怒らせる」という意図があり、そして劇場版の『夏エヴァ』に関しては「終わらせるためにやっただけ」「客の反応には一切興味がない」という、まあ改めて「この人、ヤベえな」としか思えないんですけど(笑)。

じゃあ『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』はどうなのか?っていうと、全く違うと思うんですよ。

少なくとも山崎貴監督の方は「観客を怒らせる意図」なんて無かったはずだし、「観客の反応に興味はない」などと考えてもいなかったでしょう。むしろ問題は、「そういう意図がないのに多くの観客を怒らせてしまった」という点にあるのではないかと。

山崎監督はあのオチを映画の中で肯定的に描いています。つまり、「これを観たドラクエファンはきっと喜んでくれるに違いない」「感動してくれるに違いない」と信じてるんですよね。でも、現実は全然違った。その”感覚のズレ方”が問題なんじゃないかと。

例えば、「この映画を公開したらファンからもの凄い批判が来るかもしれない」「しかし、それでもやるんだ!」という”クリエイターとしての覚悟”や”信念”を持ってやったのならまだわかるんですが、そうじゃないってところに、庵野監督とはまた違う意味での「ヤバさ」を感じてしまいました(^^;)