■あらすじ『1999年、フィリピン。採掘現場の調査にやって来た芹沢博士が謎の巨大生物の痕跡を発見する。同じ頃、科学者のジョーとその妻サンドラが働く日本の原子力発電所が謎の大振動に見舞われ、深刻な放射能事故が発生、サンドラが死亡した。それから15年後、ジョーの息子フォードは米海軍に所属し、妻や息子とサンフランシスコで幸せに暮らしていたが、ジョーが立入禁止区域に侵入して逮捕されたとの知らせを受け、急ぎ日本へと向かう。ジョーは、いまも原発事故の謎に取り憑かれていたのだ。彼は真相解明のためにはかつての実家に残る15年前のデータがどうしても必要だとフォードを説得し、2人で再び立入禁止区域への侵入を図るが、そこで衝撃の真実が明らかに…!日本が世界に誇る怪獣キャラクター“ゴジラ”を、ハリウッドがワールドワイドな実力派キャスト陣の豪華共演で映画化するアクション超大作!』
大ヒット上映中のハリウッド製怪獣映画『GODZILLA(2014)』を観て来ました。各方面で大評判となっているだけあって、たしかに面白かったです。まあ、1998年のローランド・エメリッヒ版『ゴジラ』が「おいおい、どこがゴジラやねん」という残念な出来栄えだったのに対し、今回は紛れもなく”ゴジラ”でしたね。
内容の方も「これぞ正統派怪獣映画」という感じで、エメゴジに落胆した人も十分に満足できるでしょう。ラストのムートーとのバトルも迫力があって楽しめました。そして何よりも、骨太で着ぐるみ感たっぷりなゴジラの体型が非常に素晴らしく、オリジナルに対する”愛”が強く感じられてベリーグッド!
というわけで、十分に面白い映画ではあったんですが……。肝心のゴジラがなかなか出て来ない!いや、それは演出として理解できるんですよ。ギャレス・エドワーズ監督は、前作の『モンスターズ/地球外生命体』でも「怪獣をなかなか見せない」という手法にこだわり、ほとんどロード・ムービーのような、「怪獣が滅多に登場しない怪獣映画」を撮って高く評価されてましたから。今回もその手法を採用しているのはわかるんです。
しかし、今回の『GODZILLA』は体の一部をチラチラ見せるだけで全体像は一向に映さず、ようやく全身が映って「よっしゃ〜!ここから大暴れシーンに突入か〜!」と思ったら、いきなりカットが切り替わり、ニュース映像越しに戦闘場面を見せるだけ。以降これの繰り返しという、”おあずけ状態”が延々と続くんですよ。もう完全に”寸止めゴジラ”じゃないですか(T_T)
じらすのは別にいいんです。でも「いよいよ大掛かりなアクションシーンが始まるぞ〜!」と期待させといて何度もスカされると、こっちの緊張感も段々と弛緩してくるんですよね。「ホラホラお前らが見たいのはこれだろ〜?でもまだ見せないよ〜ん♪」という、ギャレス監督のドSぶりが存分に発揮された名演出だとは思いますが、さすがに観てる側の欲求不満が溜まりすぎるのでは?と。
しかも、その結果としてゴジラの活躍場面が後半へ押しやられ、十分に堪能できない状態になっているとしたら、これはもう明らかに本末転倒と言わざるを得ません。ゴジラの出番よりもムートーが登場するシーンの方が多いってどういうこと?個人的には、「ゴジラの全貌をはっきり映した後は、”一気呵成にアクションを見せまくる”ぐらいのメリハリをつけた方が良かったのに」と思いました。
それから、「怪獣VS怪獣」のバトルに変化があまり感じられなかったのも残念。例えば『パシフィック・リム』なんかは、「巨大ロボVS怪獣」のバトルシーンを、ありとあらゆるパターンを駆使して存分に見せてくれてたわけですよ。あの映画は全編に渡ってギレルモ・デル・トロ監督の怪獣愛に満ち溢れ、「オラオラ遠慮せずに思いっ切り見ろやあああ!」と言わんばかりの大サービスぶりが凄まじく、豪華絢爛なビジュアルでお腹いっぱいになりました。
あそこでムートーを倒せなかったゴジラが、サンフランシスコに舞台を移した後は”2対1”の不利な状況になっているにもかかわらず、どうして戦いに勝てたのか?そこには「一生懸命頑張ってたら何となく勝てました」的なご都合主義の理由しか存在せず、ゴジラが勝つための合理的なロジックが見当たらないのですよ。やはり”2対1”でもムートーを倒せるほど強いゴジラが初戦で勝てなかった理由を、はっきり描写しておくべきだったんじゃないでしょうか?それを踏まえた上での”最終的な勝利”ではないのかと。
また、すでに多くのファンから指摘されているように、『ガメラ 大怪獣空中決戦』との類似性も気になるところです。なんせ「ゴジラVSムートー」の対立構造が、「ガメラVSギャオス」とほぼ同じですからね。平成ガメラを撮った金子修介監督は”怪獣映画の世界観”について、「巨大怪獣というものは一匹出てくるだけでも大変な事態であるはずなのに、怪獣映画では平気で複数の怪獣が登場している」と問題点を指摘。この不自然さを解消するために、「”ガメラはギャオスを倒すために生み出された生体兵器”という設定を作った」と述べています。
ただ、問題は「それらの設定がガメラほど上手く機能していない」という点なんですよ。ガメラの場合は「古代人によって作られた」という設定のおかげで「人類を守る行為」に一応の説得力を持たせていますが、ゴジラに関しては「なんだが良く分からないけど、とりあえず我々の味方……なのかも?」みたいな、極めて曖昧な感じで”地球の守護神”的な役割を与えられています(製作側の意向として、そういう風に演出している)。
しかし、仮に「ゴジラは人類の味方である」と考えた場合、過去に水爆を使って自分をぶっ殺そうとしていた人間達を、どうしてゴジラは助けようとしているのか?本来は、人間こそ敵対すべき相手ではないのか?むしろ、地球の自然や生態系を守るためなら、真っ先に人間を滅ぼそうとするんじゃないの?など腑に落ちない点も噴出してしまうわけです。
「いや、ゴジラには”人間を助けよう”なんて認識は無い。ただムートーを倒そうとしているだけだ」と考えている人もいるようですが(もちろんその考えは間違っていないのですが)、だったらなぜギャレス・エドワーズ監督は”人間を助けているように見えるシーン”をわざわざ入れたのか?その意味をよく考えていただきたい。
この映画では、ムートーが主人公の父親を殺し、ゴジラが主人公の息子の命を(結果的に)救っているのです。もちろんそれらは偶発的な出来事で、怪獣自身にも全く自覚は無いでしょう。しかし例え自覚がなくても、結果的にそうなってしまった。この展開はいったい何を意味しているのか?ということが重要なのです。
しかも、ムートーとの戦闘で周囲に甚大な被害が出ているはずなのに、ゴジラが人間側に直接危害を加えるシーンはほとんど映っていません。これは1954年の第1作目とは真逆のアプローチであり、意図的にヒーローとしての側面を強調しようとしていることが明白なのです(監督もインタビューでそう証言している)。おまけにラストのニュース映像には「怪獣王(King of the Monsters)は救世主か?」という文字まで…。
これって、1957年にアメリカで公開された『怪獣王ゴジラ』(『Godzilla, King of the Monsters!』)が元ネタなんですよね。『怪獣王ゴジラ』は第1作目の『ゴジラ』を海外仕様に編集し直した映画で、多くのアメリカ人にとってはこちらの方が馴染みがあるそうです。また、日本人にとってもゴジラが他の怪獣をやっつけている姿には違和感が無いでしょう(長いシリーズの中ではゴジラが人類の味方であるかのような描写も見受けられたので)。
だから、過去の経緯を知っている人にとっては「ゴジラとはそういう存在なのだ」と納得できるとしても、一本の映画として観た場合(あるいはゴジラ映画を初めて観る人にとって)、やはり「それはちょっとどうなんだろう?」という感じは否めません。その辺がやや残念でした(繰り返しになりますが、この映画ではゴジラを”人類の味方”として描いているわけではなく、”救世主なのか?”と匂わせる程度に留めています)。
というわけで、色々と批判的な意見を書いてしまい、ゴジラファンの方には非常に申し訳ない気持ちで一杯ですが、僕自身もゴジラが好きで、今回の映画をとても楽しみにしてたんですよ。ただ、「ちょっと期待し過ぎたかなあ」という感じが無きにしも非ずというか、予告編を見たら”VSモノ”ではなく、ゴジラ単体の映画のように宣伝していたので、勝手に「1954年に公開された第1作目のような映画」と思い込んでいた所為なのかもしれません。●人気記事一覧
・これはひどい!苦情が殺到した日本語吹替え版映画ワースト10
・まさに修羅場!『かぐや姫の物語』の壮絶な舞台裏をスタッフが激白!
・日本映画のレベルが低くなったのはテレビ局のせい?
・町山智浩が語る「宮崎アニメの衝撃の真実」
・「映像化不可能」と言われている小説は本当に不可能なのか?