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解説が欲しい映画 『悪の法則』ネタバレ感想


■あらすじ『美しい恋人ローラとの結婚を決意した敏腕弁護士”カウンセラー(マイケル・ファスベンダー)”は、ふとした出来心から闇のビジネスに手を出してしまう。派手な暮らしをする実業家のライナーから、裏社会を渡り歩く仲買人ウェストリーを紹介され、メキシコの麻薬カルテルとの大きな取引に一枚噛むことを決意。ウェストリーからは”危険な相手だ”と警告されたものの、自分は大丈夫とタカを括っていたカウンセラーだったが、思いもよらぬ事件に巻き込まれ、やがて絶体絶命の窮地へと追い込まれる…!「ノーカントリー」の原作者でもあり、本作で初の映画脚本に挑戦したコーマック・マッカーシーと、巨匠リドリー・スコット監督の夢のコラボで贈るクライム・サスペンス超大作!』



マイケル・ファスベンダーブラッド・ピットペネロペ・クルスキャメロン・ディアスハビエル・バルデムら豪華キャストに加え、なぜかチョイ役でジョン・レグイザモが出演(あの役はなんなんだ?w)。

さらに『ノーカントリー』の原作者が脚本を書き、巨匠リドリー・スコットが監督した本作は公開前から大きな注目を集めていましたが、蓋を開けてみれば全米で大コケ。

内容に対する評価も賛否両論真っ二つに分かれ、ロッテントマトのレビューでは支持率37%と微妙な結果に。全世界の興行収入もわずか7000万ドルに終わる等、いまいちパッとしませんでした。

ただし、映画の製作費が2500万ドルと格安だったため、大きな赤字にはならなかったようです(こんなに有名な俳優が出てるのに2500万ドルって、凄いコストパフォーマンスだよなぁ)。

というわけで、公開当時は結構酷評も多かった(ような気がする)『悪の法則』をやっと観賞しましたよ。『プロメテウス』に引き続いてまたもや賛否両論作品だったため、「リドリー・スコットもうダメだろ」みたいな空気も漂っていたようですが、果たして本当にダメなのか?

たしかにこの映画って、ちょっと感想を語るのが難しいんですよね。僕は公開時には観に行けなかったんだけど、僕の周辺やネット上でも批判が少なくなかったし。で、批判している人の理由の大半は「意味が分からない」というものでした。その意見には概ね同意せざるを得ないというか、非常に分かり難い映画であることは間違いないでしょう。

例えば物語の構成を見てみると、普通のサスペンス映画なら割と早い段階から何らかの”事件”が起こることが多いと思います。その事件をきっかけに様々なドラマが展開していく…というのがサスペンス映画のセオリーだから。ところが、『悪の法則』は物語が始まってから約1時間、何の事件も起こりません。

実際は、「登場人物の日常の裏側で密かに事件が進行していた」という状況を表わしているんですけど、多くの観客がそれに気付かないため、「いったいこの映画は何を伝えようとしているの?」「ただの日常を映しているだけで退屈だ」と感じてしまったのでしょう。

また、本作は”一種の会話劇”と言えるぐらい会話シーンが多く、しかも会話の中身がストーリーに関係あるのか無いのか非常に判別がつきにくいため、ますます「面白くない」と感じてしまう悪循環に陥ったと思われます。

さらに、”原因”と”結果”に関する描写も曖昧で(わざと説明を省いているからですが)、「誰と誰が何をして結局どうなった?」等の”根本的なストーリー展開”すら理解不能という厳しい状況に多数の脱落者が出た模様(まぁ「最後に全ての謎が解けて真犯人が分かってスッキリ解決!」みたいな映画では全然ないからねぇ)。ちなみに、劇中で「良く分からん!」とされているシーンは、主に以下のような場面だと思われます。

1:主人公はどんな手順で金を儲けようとしていたのか?

2:マルキナは最終的に麻薬を手に入れたのか?

3:教会で神父に懺悔をするシーンの意味は?

4:ドラム缶の死体は誰?

5:スペイン語でどんな会話をしていた?

6:ラストに登場した男は何者?

7:結局、主人公は助かったのか?

8:マルキナの最後の会話はどういう意味?

以下、ざっくりと解説していきますが、例えこれらの疑問点が解明できたとしても直ちに「この映画って面白い!」とはならないと思うので、僕の解説は参考程度にご覧ください(なお「あのDVDには何が映っていたのか?」については、たぶんほとんどの人が想像できていると思うので省略します)。


1:主人公はどんな手順で金を儲けようとしていたのか?
今回、主人公が手を染めたビジネスは「メキシコの麻薬カルテルが625キロのブツをシカゴまで運ぶための計画に出資する」というもの。全体的な末端価格は2000万ドルで、主人公はそのうちの何パーセントかを融資手数料として受け取る契約になっていたようです。

2:マルキナは最終的に麻薬を手に入れたのか?
ルキナは二人の仲間を使って麻薬輸送車を強奪したものの、結局麻薬カルテルに取り返されてしまいました。そこでウェストリーにハニートラップを仕掛け、彼の個人資産を奪う作戦に変更。結果、ウェストリーは首を切られて死亡します。

3:教会で神父に懺悔をするシーンの意味は?
ルキナはローラから「教会へ行って神父様に懺悔する話」を聞かされ、興味を持ちました。ローラにとっては当たり前の行為でも、マルキナにとってそれはとても”奇妙な世界”に見えたらしい。

4:ドラム缶の死体は誰?
ジョン・レグイザモ演じる”つなぎ服の男”によると「ただの密航者」だそうです(ストーリーに関係ない)。なぜ死体をドラム缶に入れているのかといえば「別に理由は無い。ジョークだよ。この商売にはユーモアのセンスが必要なんだ」とのこと。

5:スペイン語でどんな会話をしていた?
本作には時々スペイン語の会話シーンが出てきますが、監督の意向で字幕が入っていません。まあ大した話はしてないんですけど、何となく気にかかりますよね。ちなみに、飲み屋のマスターとの会話は「誰の写真ですか?」「私の妻だ」「綺麗な人ですね」という内容。

そしてDVDを届けに来た少年との会話は、「ある人から頼まれました」「待ってくれ。これは一体なんだ?」「さあ?贈り物だとか…わかんないですよ。開けてみたら?」という感じです。

6:ラストに登場した男は何者?
ラストにマルキナと食事をしている男は投資アドバイザーのマイケル。手に入れた金をどうするか、株への投資やダイヤモンドへの換金など、マルキナの依頼で有効な資産運用を検討していたようです。

7:結局、主人公は助かったのか?
主人公がその後どうなったかについては不明。一応、麻薬カルテルと繋がりのある弁護士に話をつけてもらったようですが、わざわざDVDを送り付けたところを見ると「いつでも殺せるぞ」という警告にも思えます。

8:マルキナの最後の会話はどういう意味?
投資アドバイザーのマイケルに向って自分の意見を喋り続けるマルキナ。映画は彼女のセリフが終わると同時にスパッと終わってしまうので、観ている方も「は?」ってなったんじゃないでしょうか(笑)。ちなみに、映画本編でマルキナが話していた内容は以下のような感じでした。

「ハンターが獲物を殺す姿は興奮するわ。ハンターには、優雅さと美しさがある。限りなく澄み切った心もね。美しい姿とその心は表裏一体なのよ。習性とは殺すこと。私たち人間はまるで違うわね。心の弱さが破滅の果てへと導く。同意しないかもしれないけど、臆病者ほど残酷よ。これから始まる殺し合いは凄惨を極めるわ」

ルキナはマイケルにハンター(狩人)の習性を語りながら、狩人と人間との関係性について持論を展開しています。そして最後の「これから始まる殺し合いは凄惨を極めるわ」というセリフから、「この後、麻薬組織同士の大規模な抗争が始まるのか?」と思った人もいたようです。

ところがこのセリフ、実はコーマック・マッカーシーの脚本ではもっと長く書かれていて、映画版はそれを短くカットしたものだったのですよ(シナリオでは以下のような感じになっています↓)。

「獲物が優雅に殺される姿って、見ていてとても感動するのよね。狩人の心の純粋さは他のどこにもないものだわ。狩人というものは”何であるか”ではなく、”何であることを免れているか”によって定義されていると思う。狩人の本質とはすなわちその行動であって、本質と行動は区別できない。狩人の行動とはつまり殺すこと。私たち人間はまったく別よ。人間は、自分が選んだ道に相応しい姿をしていないんじゃないかと思うの。相応しい形をしていなくて、心構えもできていない。私たちは血と恐怖をベールで隠そうとする。だから今のような状態でいる。私たちは気が弱いからそういうものに目をつぶってしまうけれど、そうすることによってそれを自分達の運命にしているの。あなたはこの考えに賛成しないかもしれないけどね。でも臆病者ほど残酷なものはなくて、その残酷さがもたらす殺戮は、たぶん想像を絶するものになるわ」

映画版に比べると、シナリオ版の方は非常に長いことが分かるでしょう。これを読むと、マルキナは人間の心の奥に潜む”臆病者の残酷さ”を語っているだけで、麻薬組織の抗争とは関係が無いように思われます。ここで彼女が語っていることは、あくまでも”人間の本質”であり、同時に自分自身の”行動原理”についても言及しているのです。

悪の法則 単行本

コーマック・マッカーシーが書いた本作の脚本(小説ではありません)

さて、一言で言うと『悪の法則』は非常に哲学的な作品です。様々な登場人物が主人公に色んなことを語りかけてきますが、それらの会話は一見本筋とは関係ないように思わせながら、”ある事柄”を象徴しているのですよ。

例えば、「俺を(私を)巻き込むな!」という台詞が男女を問わず何度も出てくるんですけど、それは「主人公以外の人たちは最悪な状況を理解し、巻き込まれたらどうなるかを知っている」が、それに対し主人公だけが何も知らない(知ろうとしない)様子を表わしています。

ブラッド・ピット扮するブローカーのウェストリーは、「自分から裏の社会へ足を踏み入れておきながら、”私は関係ありません”とは甘すぎる。もはや打つ手は無いと思え」と言い放ち、主人公を絶望のどん底へ叩き落としますが、この時点でもまだ主人公は「何とかなるかも」と考えている、そのギャップ(認識の甘さ)こそが本作の真骨頂であり、”残酷で不条理な世界”と対峙した哀れな男の苦悩を表わしているのです。

つまり、本作で描こうとしているのはそういう”不条理な世界”そのものであり、”黒幕の正体”とか”事件の謎”などを解き明かそうとしてみてもあまり意味がないのですよ。むしろ、本作をサスペンス映画として観ること自体が間違っているのかもしれません。ではいったい、この映画はどういうところが面白いのか?

僕が個人的に好きなシーンはドラマ終盤、いよいよ追い詰められた主人公が最後の望みを懸けてメキシコの有力者:ヘフェに電話をする場面です。「自分が置かれた状況の真実を知るべきだ。犯した過ちを取り消そうとする世界は、過ちを犯した世界とはもはや違う。今、あなたは岐路にいて道を選びたいと思っているだろう。だが、選択はできない。ただ受け入れるだけ。選択はずっと前に行われたのだ」などと冷たく突き放す言葉を主人公に延々と語りかけるヘフェ。

このシーンの何が凄いかって、びっくりするほど映像に変化が無いんです。携帯電話を耳に当てたマイケル・ファスベンダーの顔をずっと映しているだけで、全然画面が動きません。「助けて欲しい」とお願いしているのに、説教なのか何なのか良く分からない話を延々と聞かされ、「なぜ僕にそんな話をするんだ?」と半ベソ状態になるマイケル・ファスベンダーが気の毒すぎる(笑)。微かに抱いていた甘い希望も完全に打ち砕かれ、”真の絶望”を知る瞬間を淡々と描いている一連のショットが実に素晴らしかったですねぇ。

ヘフェが言った「選択はずっと前に行われたのだ」とはどういう意味なのでしょう?実は、主人公はすでに何度も”選択”を迫られ、その度に”警告”を受けていたのですよ。最初の選択は、宝石を買うためにアムステルダムを訪れた時。

主人公は宝石商から「これは”警告のダイヤ”です。どんなに代価を支払おうとも、人は石の”永遠性”を追い求めようとする。それが宝飾品の真髄ではありませんか?愛する者を宝石で飾ることは、命のはかなさを知り、それを賞賛することです。死神に向かって”闇の力には負けぬ”と宣言する。不滅の石で永遠の命を願うのです」と語り掛けられました。

もしここで主人公がダイヤを買わなかったら、その後のドラマはおそらく違う展開になっていたでしょう。しかし、高価なダイヤを購入したことで「もっと金を稼がなければ…」と欲が出てしまい、危険な麻薬ビジネスに手を出すことになるのです。

そしてブローカーのウェストリーも「取引に関わるメキシコの麻薬カルテルは、特に弁護士に対して容赦がないぞ」と主人公に警告するものの、これも無視して取引に加担してしまいました。

さらに、殺人罪により収監中のルースから、スピード違反で拘留された息子の保釈を頼まれた時も、きっぱり断っていれば麻薬カルテルに命を狙われることもなかったかもしれません。しかし、これらの場面でことごとく間違った選択をしてしまった主人公は、取り返しのつかない最悪のルートを突き進むことになるのです。

また、この映画は単純に「メキシコの麻薬カルテルの恐ろしさ」を描いているだけではありません。なぜなら、一見リアルに見える描写も、良く見たら全然リアルではないからです。

例えば物語中盤、重要なブツを運ぶライダーを殺すために道路にワイヤーを仕掛けるシーン。事前にバイク屋に行って車高を確認するなど、用意周到な計画の様子を描いていますが、人を一人殺すためにあんな面倒な方法を取るでしょうか?

普通、プロだったらもっと確実で迅速な方法を選ぶだろうし、誰かに目撃される危険性やそもそも「別の車が通ったらどうするんだ?」という問題などを考慮した場合、あまりにも現実性が無さ過ぎるのですよ。つまり”ワイヤーで相手の首をぶった切る”という描写は完全に”様式”であり、この物語全体がある種の”寓話”であることを意味しているのではないかと。

なぜなら、劇中ではバイカー、ブラピ、ペネロペなど、何度も斬首シーンが登場しているからです(”ボリート”という首切りメカまで登場する)。おそらく、これらの首切り場面は何らかのメタファーであり、寓話性を強調するためのギミックだと思われますが、それが何を意味しているのかはハッキリとは分かりません。

ただ本作の寓話性は、”信じられないような恐ろしい世界”を成立させるために機能しているのではないか、と考えられます。主人公は弁護士なので、ずっと”理屈が通用する世界”で生きてきました。しかし自分にとって”常識”だと思っていたことが、全く通用しない世界がこの世にはある、という現実を目の前に突き付けられて愕然。

それでも、その現実を認めようとせず、今いる世界を拒み続けているのです。そんな主人公に対し、ヘフェが語りかける最後のセリフ。ここに、この物語の本質が全て集約されていると言っても過言ではないでしょう。

「そう、あなたは理解しなければならん。人生を取り戻すことなど出来ないということを。あなたは”世界”を作り上げた。あなたが消えれば、あなたが作り上げた世界も共に消える。だが、最期の時が迫り来ると知る者にとって、死は異なる意味を持つのだ。あらゆる現実の消滅は、死を受け入れてもなお、認め難い概念だ。最期の時に、自らの人生は何だったのか。ようやく真の姿が明らかになるだろう」

正直、「いったい何を言ってるんだ?」という感じしかしないのですが(笑)。しかし、この映画の魅力とはまさにこういった”哲学的な会話の応酬”や”意味ありげなショットの数々”なので、それらを「カッコいい!」と思えるかどうかが、本作を楽しめるかどうかの分岐点になるわけです。

リドリー・スコット監督の作品は、どれも独特の世界観を構築していることで有名ですが、『悪の法則』も”理屈が通用しない世界”へ迂闊にも足を踏み入れてしまった主人公を通して、”非情で理不尽な死”を受け入れなければならない恐ろしさをじっくりと描いていました。そういう意味では、まさに「これぞリドリー・スコット!」と言わんばかりの作風であり、それこそが単なるサスペンス映画と一線を画している所以だと言えるでしょう。



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