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ガリレオ/福山雅治主演映画『真夏の方程式』ネタバレ感想/解説


■あらすじ『湯川(福山雅治)は静かな海辺の町:玻璃ヶ浦で開かれる地元説明会にアドバイザーとして招かれ、川畑節子(風吹ジュン)と川畑重治(前田吟)とその一人娘、成実(杏)が営む小さな旅館“緑岩荘”に滞在。そこで親の都合で夏休みの間だけ親戚の川畑家に預けられていた少年、恭平(山崎光)と出会い、不器用ながらも心を通わせていく。そんな中、元警視庁の刑事、塚原(塩見三省)の変死体が海岸で発見された。捜査一課の岸谷美砂(吉高由里子)は、湯川にダメもとで協力を依頼するが…。』



本日、土曜プレミアム福山雅治主演の『真夏の方程式』が地上波初放映されます。「ガリレオ・シリーズ」の劇場版を2週連続テレビ放映するということで、湯川教授のファンにとっては嬉しい限りでしょう。

ただ、先週の『容疑者Xの献身』は割と評判が良かったのに比べ、本作は賛否両論というか、批判的な感想も多かったみたいですねぇ。まず、ミステリーのトリックにインパクトがない。そして殺人の動機に説得力がない。この二点に批判が集中したようです。

いきなりネタバレしてしまいますが、本作で描かれているメインのトリックは、被害者に睡眠導入剤を飲ませて部屋に放置し、ボイラーを焚きつつ煙突をフタで塞いでワザと不完全燃焼を誘発させ、一酸化炭素中毒で死に至らしめる、というもの。

その後犯人は、死体を外へ運んで海岸に投げ捨てるのですが、この程度のごまかしなら別に湯川教授じゃなくても解決できるのでは?というのが主な批判理由らしい。

そもそも今回の事件は、密室トリックでもなければアリバイトリックでもない、ごくありきたり(?)な殺人事件なので、謎解きの醍醐味があまり味わえないのですよ。

「誰も解き明かせない不可思議な難事件を華麗に解決する湯川教授」の姿こそがガリレオ・シリーズの面白さであるはずなのに意外性が無い。常にファンから期待が高い人気シリーズであるが故に、これぐらいでは「ちょっと満足度が低いなあ」と感じてしまったのでしょう。

さらに問題なのが加害者の動機です。最初の事件では、勝手に家に上がり込んだ失礼な女(三宅伸子)に腹を立てた少女(川畑成実)が女を包丁で刺殺。少女の実の父親(仙波英俊)が罪を被って刑務所へ。

そして2番目の事件では、最初の殺人事件を担当していた元刑事(塚原正次)が訪ねて来たことで、事件の真相がバレることを恐れた育ての父親(川畑重治)が元刑事を殺害しています。

どちらも恐ろしく短絡的ですよねぇ。強引に家に上がり込まれ、体を突き飛ばされ、挙句に家族の写真を奪われた成実の方はまぁ、怒りの心情を理解できなくはありません(それでも”殺すほどか?”って感じだけど)。

しかし元刑事の方は、過去の事件をネタに家族を脅迫とかしているならまだしも、別に何も悪いことはしていないし、仮に過去の真相を知られたとしても、すでに事件は終わっているのだから、殺される理由が全く見当たらない。殺人の動機としてはあまりにも曖昧で、説得力が無さすぎるんですよ。

しかもその結果、一人の娘を助けるために、”二人の父親”がそれぞれ刑務所へ行くことになってしまったわけで。こんな方法で救われた娘の身にもなってください。ラスト、真相を知った当事者の娘は申し訳なさのあまり自殺を図ろうとしますが、そりゃそんな心境にもなるよなぁ…

実はこのドラマの構造って、『容疑者Xの献身』と似てるんですよね。『容疑者Xの献身』の場合は、隣に住む親子が犯した殺人事件を隠蔽するために、石神が身代わりになってもう一つの殺人を実行する、というものでした。一方、『真夏の方程式』は、自分の娘が犯した殺人事件を隠蔽するために、実の父親が身代わりになり、育ての親が別の殺人を実行する、というもの。

しかし、この2作品は「やってしまったことに対する責任を取っているかどうか?」という点において決定的に異なっています。『容疑者Xの献身』の場合は、人を殺した石神は「私がやりました」と警察に自首し、その後花岡靖子も「ごめんなさい。私も一緒に罪を償います」と白状して自分が殺人を犯したことを認めていました。

それに対して『真夏の方程式』の方はどうなのか?父親(重治)は「あれは事故です」とあくまでも業務上過失致死を主張し、杏さん演じる娘も(おそらく本当の事を喋ると父親のやったことが無駄になるから)真相を話さない(話せない)。つまり、「やってしまったことに対して本人が責任を取っていない」のですよ。

面会に訪れた湯川が、前田吟演じる川畑重治に真相を突き付けても、「それは湯川先生の想像でしょ?」と一貫して殺人を認めず、湯川の方も「そうですか」とだけ言い残してそれ以上の追及をしません(つまり、何も問題が解決しないまま話が終わっている)。これは、いくらフィクションとは言えマズイんじゃないでしょうか?

実の娘を助けるために身代わりになった仙波の行為は、自分が刑務所に入るだけだから少なくとも他人に迷惑はかけていない。しかし重治は実際に罪もない人を殺しているのだから、どう考えてもアウトですよね。しかも、殺人の手伝いを小学生の恭平くんにやらせるなんて酷過ぎる!これはアレか?自分の娘さえ幸せなら、それ以外の人はどうなってもいいって考え方なのか?

つまりこの映画の問題点は、”愛する娘を守るため”という大義名分を楯に、殺人犯を擁護しているようにしか見えないところなのです。我が子を助けるために人殺しをするお父さんの姿を感動的に描くことで、犯罪を美談にスリ替えているのではないか?と。家族ぐるみで事件を隠蔽する行為を、”家族愛”という美しいワードで正当化しようとするその姿勢に、嫌悪感を示す観客が多かったのではないでしょうか。

●原作小説との相違点について

では一方、原作小説の方はどうなのか?映画版と東野圭吾の小説版を比較した場合、かなり忠実に原作を映画化していると思います。ただ、「じゃあ原作が悪いのか」っていうと、それもちょっと微妙なんですよね。長い原作を映画化するために、いくつかのキャラクターやエピソード等を省略しているからです。

例えば、映画版では塚原が川畑家に接触した目的は「過去の事件の真相を調べるため」となっていました。ところが原作では、すでに仙波から事件の真相を全て聞き出し、「誰が真犯人か」ということも知っていたのです。では、なぜ塚原は玻璃ヶ浦までやって来たのか?

実は、末期癌に侵され余命いくばくも無い状況の仙波から過去のいきさつを聞いた塚原は、「娘さんに会いたくはないのか?」と尋ねたのです。すると「そんなことをしたら今までやってきたことが全て無駄になる。自分はこのまま静かに死ぬのが一番いいんだよ」と答えました。

しかし、そんな仙波を不憫に思った塚原は一人で玻璃ヶ浦を訪れ、客として川畑節子に近付き、「仙波は今死にかけている。あと1ヵ月もたないかもしれない。息を引き取る前に、命懸けで守った自分の娘と再会させてやりたいんです。どうか一目だけでも会わせてやってもらえませんか?」とお願いしていたのですよ。

ところが、映画版ではこういう説明がスッポリ抜けているため、単に「仙波の事件を調べに来た塚原が川畑重治に殺された」としか映らないんです。変更するのはやむを得ないんですが、こういう部分は省略しないできちんと描いた方がいいと思うんですけどねぇ。

中でも一番大きな変更点は、「川畑重治の行動」に関するくだりでしょう。映画版では、塚原の死体を遺棄した件は、全て川畑重治の独断で行ったように描かれていました。しかし原作ではフリーライターの「沢村」という男が事件に大きく関わっているのです。

塚原が死亡した直後、川畑重治は「大変なことをしてしまった。すぐに警察へ届けなくては…」と動揺していました。ところが、重治の奥さんを車で旅館まで送り、偶然その場に居合わせた沢村は、「これがバレたら地元のイメージが悪くなって観光客が寄り付かなくなる」などと言い出したのです。

彼は環境保護活動にも熱心で地元の活性化を願っていたため、マイナスなイメージが広がることを恐れたのでしょう。そして「いったいどうすればいいんだ?」と頭を抱える重治に、「遺体をどこか他の場所へ移せばいい」と提案したのです。

最初、重治は「そんなことはできない!」と拒みますが、「これはあなただけの問題じゃないんだ。このことが公になれば地元のみんなが困るんだよ!」と沢村に強く説得され、しかたなく死体遺棄に同意することに(つまり重治の意志ではなかった)。さらに沢村は、足の不自由な重治の代わりに死体を車に乗せて海岸まで運び、岩場から投げ落としたのです。

最終的に沢村は警察に対し、「遺体の処分を提案したのは自分で、実際に遺体を運んだのも自分だ」と全ての経緯を自白し、「塚原の死亡は偶発的な要素が多く、死体の遺棄は沢村主導だった」と結論付けられ、重治のキャラクターに”同情の余地”を残しているのですよ。このように、原作の方では極めて重要な人物として描かれている”沢村”ですが、なぜか映画版には登場しません。

そのため、川畑重治が「自分の娘を救うために計画的に犯行を企てる利己的な人物」みたいに見えてしまってるんですよねぇ。ちなみに、成実が女を刺殺した動機も、原作では「あんたが本当の娘じゃないという事実を重治にバラしてやる!」と脅され、今の幸せな家庭が壊れることを恐れた成実が無我夢中で刺した、となっていて一応の説得力があります。

とはいえ、「川畑重治が塚原を殺した動機」については原作版でもはっきり描かれていないので、どうしてあの人が殺されなきゃならないんだ?」という違和感は拭いきれないままでした。ここら辺は映画版・原作共々に弱い部分だと思います。

●良かった部分について

さて、映画『真夏の方程式』についてダメな部分ばかりを取り上げましたが、もちろん良い部分もあります。先程は「長い原作を映画化するために、いくつかのキャラクターやエピソード等を省略している」と述べました。でも、逆に「原作には無い映画オリジナルの場面」も付け加えられているのですよ。

例えば、冒頭シーンで三宅伸子が刺殺される場面をいきなり見せていますが、この辺は原作にありません。その後、母親が娘に向かって「このことは二人だけの秘密よ」と語りかけるシーンも原作ではかなり後半で出てきます。アバンタイトルで観客の興味を引き付ける上手い手法ですね。

一番感心したのは映画終盤、取り調べ室で湯川と川畑重治が向かい合って会話するシーン。湯川が真相を語り、重治が「違います」と否定する様子を成実がマッジクミラー越しに見ている、という感動的なこの場面は全て映画オリジナルであり、ここで初めて成実は事件の真相を知るわけです。

自分と母親がひた隠しにしてきた事実を、重治はすでに気付いていた。気付いていながら、それでもずっと自分達を愛し続けてくれたのだ…と。非常にドラマチックかつエモーショナルなシーンで、成実役の杏の演技も素晴らしい!まさに「映画版ならでは」の名場面と言えるんじゃないでしょうか。

そして、映画全般に渡って何よりも見事なのは映像の美しさ!特に湯川と恭平が手製のペットボトル・ロケットを海へ向かって何度も打ち上げるシーンは、本作の見どころの一つでしょう(原作にも同じシーンが出て来ますが、圧倒的に映画の方が綺麗)。

子供が苦手だったはずの湯川が、なぜか恭平にだけは心を開き、科学の実験を通じて徐々に二人の間にある種の”絆”が生まれてきます。湯川は相手が小学生でも本気で接していました。一人の大人として、恭平に”大切な何か”を伝えようとしたのでしょう。そして最後に湯川は語りかけました。「忘れないで欲しい。君は一人ぼっちじゃない」と。

すなわちこの映画は、一人の少年が”真夏に起きたある事件”をきっかけに大人の階段を昇り始める様を描いた成長物語であり、彼のほろ苦い体験を見事に活写しているのです。それが本作を単なるミステリーではなく”ヒューマンドラマ”として結実させた所以なのではないでしょうか。


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