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劇場アニメ『クラッシャージョウ』はこうして作られた

クラッシャージョウ

クラッシャージョウ


どうも、管理人のタイプ・あ~るです。

さて先月、BS12(トゥエルビ)の「日曜アニメ劇場」で映画クラッシャージョウが放送されました。

クラッシャージョウ』といえば、作家の高千穂遙さんが手がけたSF小説が原作で、「壊し屋(クラッシャー)」と呼ばれる”何でも屋”たちの活躍を描いたスペースオペラです。

もともと高千穂遙さんは漫画家志望だったんですが、「ストーリー漫画を描きたかったのに、僕の絵のクセではどうしても4コマ漫画になってしまう」とのことで断念。

そこで、大学在学中に知り合った仲間(松崎健一宮武一貴)たちと共に有限会社「クリスタルアートスタジオ」を立ち上げ、SF作家活動を開始しました(1972年頃)。

やがて「クリスタルアートスタジオ」は、アニメのメカデザインやSF設定などを請け負うスタジオぬえへと移行していくわけですが、当時の高千穂さんの主な仕事は”マネージャー”だったそうです。

要はアニメの企画会議に参加してクライアントの意向を確認し、「このストーリーの中でメカをカッコよく見せるにはどうすればいいか?」などを検討しつつデザイナーたちと打ち合わせ…みたいなことをやっていたらしい。

当時のスタジオぬえは『ゼロテスター』、『勇者ライディーン』、『超電磁ロボ コン・バトラーV』、『宇宙戦艦ヤマト』などのメカデザインや設定に関わり、高千穂さん自身も様々なアイデアを提案していた模様。

例えばコン・バトラーVの打ち合せ中に、長浜忠夫監督から「何かいい武器はないか?」と聞かれて「『スケバン刑事』という漫画でヨーヨーを使ってましたよ」と答えたら、それが採用されて「超電磁ヨーヨー」になったとか(笑)。

しかしマネージャー業だけでは飽き足らず、仕事の合間にコツコツとSF小説を書いていたそうです。そんな頃、アメリカではあるSF映画が話題になっていました。ジョージ・ルーカス監督のスター・ウォーズです!

ご存知、ルーク・スカイウォーカーハン・ソロたちが大宇宙を舞台に様々な冒険を繰り広げるスペースオペラで、1977年5月の公開直後から凄まじい大ヒットを記録!

日本での公開は翌年ですが、早くも噂が伝わり日本でもSFブームが巻き起こり、『惑星大戦争』や『宇宙からのメッセージ』など色んな便乗映画が作られました。

その状況を見た高千穂遙さんは「ついにチャンスがやって来た!」とわずか2週間で1冊のスペースオペラを書き上げ、自ら出版社へ持ち込んだそうです(高千穂さん曰く「あの頃は早かった。今なら4年はかかる」とのことw)。

(※なお、この部分は最初は「出版社から執筆を依頼されて…」と書いてたんですが、記事を投稿した直後になんと高千穂遙さんご本人から「僕が自分で書いて出版社に持ち込んだんですよ」と間違いを指摘されたので訂正しました。ありがとうございます!)

それが、朝日ソノラマの「ソノラマ文庫」から出版された記念すべき第1作目『クラッシャージョウ 連帯惑星ピザンの危機』で(1977年発売)、本作により高千穂遙さんは念願の小説家デビューを果たしたのです。

当時はまだスペースオペラを題材にした小説が珍しかったこともあり、『クラッシャージョウ』は大評判になりましたが、高千穂遙さんは「やっぱり安彦さんの絵があったからでしょう」とコメント。

安彦良和さんといえば、現在では『機動戦士ガンダム』のキャラクター・デザイナーとして有名ですが、当時はまだ『勇者ライディーン』や『わんぱく大昔クムクム』など一部の作品で知られる程度でした。

でもスタジオぬえが『勇者ライディーン』に関わっていた縁で知り合いになった高千穂さんは、「なんてカッコいい絵だ!小説を書く時は絶対この人に挿絵を頼もう!」と早い段階から決めていたそうです。

 

ところが、いざ『クラッシャージョウ』を書くことが決まって安彦さんに依頼したら「自分はただのアニメーターなので、イラストみたいな絵は描けない」と断られてしまいました。

しかし高千穂さんも「この小説はあなたの絵を思い浮かべながら書いたものだから、他の人ではダメなんだ!」と簡単には諦めません(いや、それは高千穂さんの都合でしょうw)。

結局、高千穂さんに説得された安彦さんは「まぁ1回だけならいいか」と引き受けてしまうんですが、後に「まさかシリーズ化されて映画になるなんて全く想像もしてなかった」と語っています。

こうして『クラッシャージョウ』のイラストを担当することになった安彦さんは、その作業を通じて徐々に高千穂さんと交流を深めていきました。

ちなみに、「アニメの原画用紙に鉛筆で絵を描くやり方しか知らない」と言う安彦さんのために、スタジオぬえが鉛筆画をコピーして入稿用の絵に仕上げ、高千穂遙さんもスクリーントーンの使い方を指導したそうです。

※この部分も、記事の投降後に高千穂さんから「実際に安彦氏に指導したのは、ぬえ所属のめりこです」との指摘がありました(当時ぬえの漫画班に所属していた漫画家の瑞原芽理(みずはらめり)さんのこと)。

クラッシャージョウ

クラッシャージョウ

さて、『クラッシャージョウ』第1巻が発売されてから4年後の1981年。続編の『撃滅!宇宙海賊の罠』や『銀河系最後の秘宝』などが次々と出版されて人気を博していた頃に、劇場版『機動戦士ガンダムの第1作目が公開され、大ヒットを記録!

それを見た当時のサンライズの岸本社長が「TVの再編集版ではなく、完全新作のオリジナル劇場用長編アニメを作ろう」と言い出したのです。そこで選ばれたのが『クラッシャージョウ』でした。ところが、原作者にとっては全く予想外だったようで…

ある日、喫茶店に呼び出された高千穂遙さんは、「『クラッシャージョウ』をアニメ化したい」と岸本社長から告げられ、非常にビックリしたらしい。

アニメにするつもりなんて全然なかった。やっぱり自分がアニメの仕事をやってたから、小説の10万とか20万とか、その程度の読者でアニメの企画を計っちゃいかんわけですよ。

例えば漫画だったら、少年ジャンプは発行部数300万部とかあるから、TVの視聴率とか観客動員数はそこから予想がつくけど、小説などは無謀なことして高い金を使わせちゃいけないし、日本サンライズ(当時)もお金がなかったから、アニメ化なんて全く予想外でしたね。

(「キネマ旬報」1983年3月下旬号より)

どうやら高千穂さんは『クラッシャージョウ』のアニメ化に関して、当初はあまり乗り気ではなかったらしく、それどころか「本当にいいんですか?」と企画自体に懐疑的だった模様。

そこで、岸本社長に「安彦さんがOKしなきゃダメですよ」と言ったら「大丈夫、OKしたから」と言われてまたまたビックリしたそうです(なんと、先に安彦さんに声をかけていたとはw)。

 

一方、安彦良和さんは岸本社長から監督を打診された時、「まぁ、やれと言われたらやりますけど…」みたいな感じだったらしい。

監督に関しては、「やれと言われたらやります」というところはあったんだけど、ただサンライズ初のオリジナル長編ということであれば、先輩の演出家や監督、たとえば富野氏とか高橋良輔さんとかがいるわけですよ。そういう人にやって欲しいというのもあって。

ちょっと言いにくいのは、望んで作った作品ではなかったということだよね。俺自身がスペースオペラを作ることに自信があったわけでもないので、本当にスペオペが好きな人が「面白い」と言ってくれるかどうか、かなり不安だった。それこそ、お手伝いできることは何でもするから、誰か監督をやってくれないかと考えていたぐらいで。

ただ、高千穂にも「安彦さんしかいないでしょ」というようなことも言われていたし、やらざるを得ないというね。それは、こう言ってはあれだけど、計算外だった。

(「安彦良和 マイ・バック・ページズ」より)

どうやら安彦さんの方も、積極的に「監督をやりたい!」という感じではなかったみたいですねぇ。ともあれ、こうして『クラッシャージョウ』のアニメ制作がスタート!まず、高千穂さんと安彦さんの間で「どんなストーリーにするか」について話し合いが行われました。

普通、ヒットした小説を映画化する場合、原作の内容に従ってストーリーを構成するものですが、『クラッシャージョウ』はゼロから新しく話を作ることになったのです。

そこで高千穂さんが「どんな映画を作りたい?」と要望を聞いたところ、安彦さんは非常に困惑したらしい。

どんな映画を作りたいか具体的なイメージを聞かれたんだけど、出なかった。『フレンチ・コネクション』とか『大脱走』とか適当に言った気がするけど、全然スペースオペラとはシンクロしないものばっかり。自分は格別な映画好きではないし、なかなか映画を観ることができない田舎者だったから、その質問は高千穂に痛いところを突かれたなと思ったね。そこは本当に自分の弱い部分だったから。

(「安彦良和 マイ・バック・ページズ」より)

安彦さんによると「自分は映画作りを志してこの業界に来た人間ではないから、積極的にどんな映画を作りたいかなんて考えたことがなかった」とのこと。

そこで高千穂さんは、まず安彦さんに「描きたい場面のイメージ画」を作ってもらい、その場面に関わるエピソードを高千穂さんが考え、それを元に安彦さんがシナリオの第1稿を書き、さらに高千穂さんがSF考証や設定などに手を加え…

という具合に、二人の間で何度もやり取りを繰り返しながらストーリーを固めていったらしい(※この部分も高千穂さんから「初稿は丸まる安彦さんが書き、それを元に私が第2稿を入れて、さらに安彦さんが絵コンテで手直しした」と教えていただきました)。

なお、「二人で考えたものだから」ということでクレジットは「脚本:高千穂遙 安彦良和」となっています。

クラッシャージョウ

クラッシャージョウ

そして作画に関しては、劇場版『機動戦士ガンダムII 哀・戦士』や『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙』と同じく、安彦さんが作ったアニメスタジオ「九月社」が担当することになりました。

「九月社」はもともと安彦さんの個人事務所で、『アリオン』など出版物の印税を管理する目的で作られたんですが、劇場版ガンダムを制作する際、新規カットの作画を「九月社」でやるから新人のアニメーターを入れよう、という流れでスタジオ化したらしい。

さらに、この時の若手アニメーターたちは『哀・戦士』と『めぐりあい宇宙』で安彦さんに鍛えられた後、ほぼそのまま『クラッシャージョウ』へ移行しています(そのため、『クラッシャージョウ』の作画レベルは非常に高くなっている)。

しかも驚くべきことに、なんと安彦さんは本作のレイアウトと第1原画を全部一人で描いていたのですよ。えええええ!?

これがどれほど凄いかというと、『クラッシャージョウ』に参加したアニメーターは約30人いるんですが、最初に安彦さんがラフな原画を描き、それを各アニメーターに渡してクリンナップさせる…という工程になっていたらしい。

つまり、安彦さんは監督をやりながら毎週30カットのレイアウトと第1原画を描きまくり、さらに作画監督としてアニメーターから上がってきた第2原画にも修正を加えていたのです!

 

この作業によって圧倒的な精度で作画の統一が図られ、全てのカットに安彦さんの意図が反映されることになったわけですが、それにしてもまさか(ラフとはいえ)劇場アニメの原画を全て一人で描いてしまうとは…すごすぎる!

後に、安彦さんと対談したアニメーターの井上俊之さん(『ヴィナス戦記』に参加)も「凄まじい仕事量だ!」「劇場水準のレイアウトを毎週30カットも上げていたなんて信じられない!」と衝撃を受けていました(「月刊ニュータイプ 2021年6月号」より)。

なお、安彦さんによると「さすがに修正は全カットには入れてないけど、レイアウトと第1原画は全部描いた」「それぐらいのスピードでやらないと、現場に手空きが出てしまうから」とのことですが、普通はできませんよ(苦笑)。

クラッシャージョウ

クラッシャージョウ

ちなみに、劇場アニメ『クラッシャージョウ』には二人の重要なスタッフが参加していました。

一人は、後に『超時空要塞マクロス』で可変戦闘機バルキリーを生み出す河森正治さん。そしてもう一人は、TV版ガンダムの頃からアニメーターとして参加し、『哀・戦士』や『めぐりあい宇宙』でも活躍した板野一郎さんです。

河森さんは当時スタジオぬえに所属し、『クラッシャージョウ』ではメカデザインを担当。ジョウたちが乗る宇宙船「ミネルバ」や、小型戦闘機「ファイター」などをデザインしましたが、予期せぬ事態が起きたようで…

クラッシャージョウ』の時は安彦さんの隣で作業してたんです。その時は「どんなに線を増やしてもいいよ」と言われて宇宙巡洋艦コルドバをデザインしたんですが、「それ、原画も動画もキミが描くんだからね」って言われて「だまされた!」と思いましたよ(笑)。

(「河森正治 ビジョンクリエイターの視点」より)

通常、アニメのメカは動かす際の手間を考え、「なるべく線が少ないシンプルなデザイン」が基本なんですけど、河森さんは安彦さんの指示に従い、コルドバの線を思い切り増やしてしまったのです。その結果、自分で自分の首を絞めることに…(笑)。

なお、有名なコルドバが90度回頭するシーン」を描いたのはアニメーターの佐藤元さんで、巨大な宇宙巡洋艦がゆっくり回頭する作画に多くのアニメファンが度肝を抜かれました。しかし、あまりにも線が多すぎるメカに四苦八苦!

今ならCGで動かすんでしょうけど、当時は1枚1枚手で描いてますから、その苦労は計り知れません(佐藤さん曰く「あの当時は断れる状況じゃなかったのでガムシャラに描いた」「どんどんメカが嫌いになっていった」とのことw)。

クラッシャージョウ

クラッシャージョウ

そして板野一郎さんは、TV版『機動戦士ガンダム』の頃はまだ新人でしたが、第26話から原画になり、爆発シーンやフラミンゴの群れが飛ぶシーンなど大変な場面ばかりを描いていたら、安彦さんに「面倒くさいカットのスペシャリスト」として認められ(笑)、徐々に重要なシーンを任されるようになりました。

ガンダムの後に参加した『伝説巨神イデオン』では、「縦横無尽に飛び回る大量のミサイルがカッコいい!」とファンの間で話題になり、それらの作画を指して板野サーカスという名称まで誕生。

哀・戦士』と『めぐりあい宇宙』の時にはもう「板野くんはアイコンタクトだけで意図を汲み取って直してくれるんで、説明がいらない」「他の原画マンはタイミングが甘いから、終盤のカットも全部”板野行き”で」など、全面的に信頼されていたようです。

 

ところが、『クラッシャージョウ』をやっている時に河森さんと出会い、「今度『超時空要塞マクロス』ってアニメをやるんだけど…」とバルキリーのデザインを見せられた瞬間、「これは他のアニメーターでは絶対に動かせない!」と思ったらしい。

当時、河森さんがデザインしたバルキリーは、その変形プロセスも含めて画期的でしたが、複雑な構造や線の多いメカは作画をする方にとっては難物でした。しかも、マクロスの制作現場は若手ばかりでベテランがほとんどいません。

そこで板野さんは「安彦さんの作品は安彦さんさえいれば成立する」「でも向こうにはそういう人がいない」「ならば自分が行くしかない!」と考え、クラッシャージョウ』を途中で離脱し、『マクロス』の現場へ行ってしまったのです。

後に安彦さんは、「あれは当時けっこうショックな出来事だった」と振り返り、「僕が全部の第1原画を描けばクオリティは保てるけど、そうすると板野くんみたいな個性派は、やっぱり収まりが悪くなっちゃうってことなんだろうね」「もっと羽ばたきたい、弾けたいと思っている人を縛ることになるわけだから」と語っています。

この件に対して板野さんは「若さゆえのことで、本当に申し訳ない」「ちょうど自分なりに何かやってみたいと思い始めた時期にチャンスがやって来て…」「安彦さんに対しては、僕は自分を”脱走兵”だと思っています」とコメント。こうして板野さんは『クラッシャージョウ』の現場を去って行きました。

クラッシャージョウ

クラッシャージョウ

なお当時、板野さんの途中降板をめぐって安彦さんと高千穂さんの間でちょっとしたトラブルが起きていたようです。

映画公開キャンペーンの時、高千穂遙とマジでケンカになったんだよね(笑)。「板野くんのようなスタッフを使いこなせないのは、あなたのやり方に問題があるからだ」とか言われて、ちょっとムカッときて、「彼の方から出て行ったんだ。それに今やってるのはお前さんところのマクロスだろ。スタジオぬえが引っこ抜いたのも同じじゃないか!」って言い返して(笑)。

「月刊ガンダムエース 2011年5月号」より

このように色んなことがありつつも、アニメの制作は順調に進んでいきました。そしていよいよアフレコの段階になり、「主役のジョウとアルフィンの声は新人でいきたい」という高千穂さんの意向で最適な人を捜してたんですけど…

 

アルフィン役の佐々木るんさんはすぐに決まったものの、ジョウ役の方がなかなか決まらず、高千穂さんは大量のデモテープを聞きながら「これも違う、あれも違う」と焦っていたらしい。

そんな時、たまたま紛れ込んでいた2年前のテープを聞いたら「この声いいよ!この人でやりたい!」とイメージにピッタリの人を発見。それが竹村拓さんでした。ところが、「やっと主役が見つかった」と思いきや、大変な問題が待ち受けていたのです。

この声の主はもともと劇団「薔薇座」にいたんだけど、当時は役者を辞めて新宿の割烹料理屋で店長をやってたの。それで音響制作の千田啓子さんは、僕が「この人でいきたい」と言ったら、夜中に東京中のマネージャーに全部電話して、「竹村拓を捜してくれ」ってね。

そして夜の11時すぎにどうやって突き止めたか教えてくれないんだけど、千葉のアパートに住んでいることが分かったんです。それで夜中の12時、寝入りばなに電話をかけて、千田さんが「突然ですけど『クラッシャージョウ』の主役にノミネートされてますんで、声をとらせてもらえませんか?」と(笑)。

竹村が「何じゃ、イタズラ電話か」と叩きつけようとしたら「ちょっと待ってください!」と千田さんが絶妙のタイミングでね。竹村は「もう役者は辞めました」と何度も断るんだけど、千田さんが「あのね」って…。それでもうヤケになって、どうせイタズラ電話だろうって、オーディションは受けてもいいですよって、その晩は終わったの。

それで後日、千田さんが彼を連れて来たら、何だかキョロキョロしてるんだって。本人にいわせると、「いつドッキリカメラの看板が出るか」って探してたんだって(笑)。

(「キネマ旬報」1983年3月下旬号より)

こうして無事に主役も決まり、竹村拓さんは『クラッシャージョウ』で主演声優として本格的にデビューを果たしました(当時30歳)。

クラッシャージョウ

クラッシャージョウ

さて、制作も終盤に差し掛かり、そろそろ宣伝活動の時期になったのですが、ここでまたしても新たな問題が勃発。なんと公開の4カ月前に宣伝予算が無くなってしまったのです!

もともと『クラッシャージョウ』は(規模の割には)低予算で作られており、安彦さんによると「同時期の『幻魔大戦』とは、宣伝費や音楽予算、現場の製作費が倍ぐらい違うにもかかわらず、上映時間は同じで8万枚のセル数もほぼ同じだった」とのこと。

だからこそ、安彦さんは「低予算で少人数でも質の高いアニメは作れる」ということを実証したかったのでしょう。

劇場映画でお金がかかる理由は、人件費とスケジュール。スケジュールが滅茶苦茶になると作業の単価が崩壊するんです。背に腹は代えられなくなるから、制作があちこち飛び回って「これだけの金額を出すから、作画作業をやってくれ」と作業代金の相場がすごいことになる。そういう現場も見てきたから、ああいうやり方はしちゃいけないと。

この程度の予算と人数でも、これぐらいの作品ができるんだぞというのを見せたかった。リーズナブルな作品というのは、そういう意味で言ってるんです。劇場版『ガンダム』の新作映像を作っている時に、このやり方だったら自分のコントロールできる状態で劇場クオリティのものも作れると分かっていたので、そのやり方をそのまま導入して制作したんです。

(「安彦良和 マイ・バック・ページズ」より)

劇場アニメ『クラッシャージョウ』は、このような安彦良和監督の”信念”に基づいて作られていたんですねぇ。

 

とはいえ、宣伝費が無くなってしまったら宣伝できません。そこで高千穂さんはどうしたか?なんと知り合いの漫画家に電話して、「漫画の中に『クラッシャージョウ』のことを描いてくれ!」と頼んだらしい(笑)。

すると、和田慎二さんや猫十字社さんなどが本当に『クラッシャージョウ』のことを描いて宣伝してくれたそうです(高千穂さん曰く、「製作費が5000万円オーバーして予算が底をついた」「もうこういう方法しかなかった」とのこと)。

クラッシャージョウ

クラッシャージョウ

こうして、ようやく『クラッシャージョウ』が完成!パンフレット等によると「制作期間は1年半」となっていますが、実際は2年以上かかったらしい。

1983年当時、角川映画初の長編アニメーション作品幻魔大戦と、シリーズ最終作として製作された宇宙戦艦ヤマト 完結編』が同時期に公開され、「1983年春のアニメ映画興行戦争」と呼ばれました。

結果、興行成績は『幻魔大戦』に軍配が上がったものの、ハイレベルな作画がアニメファンから高く評価され、2016年には4Kリマスター版が制作されるなど、いまだに根強い人気を誇っています。

今年の3月で『クラッシャージョウ』が公開されてから39周年。もう40年近く経ったんですね、早いなぁ…

 

さて最後に余談ですが、安彦さんが旭川の劇場で『クラッシャージョウ』のトークイベントに登壇した際、「何か質問ありませんか?」とお客さんに尋ねると、一人の学生が手を上げて「絵を描く時はどこから描きますか?」と質問したそうです。

それで安彦さんが「目からですね。目を最初に描けば、目線が決まって体の向きも決まるので」と答えたんですが、なんとその子は当時高校3年生の藤田和日郎さんだったのですよ!

安彦さんと同じく北海道出身の藤田さんは、ちょうど絵の描き方について試行錯誤している時期でした。そんな時、安彦さんからこの言葉を聞いて凄く納得し、”目”にこだわって描くようになったらしい。

それから数年後、藤田さんは漫画家としてデビューし、『うしおととら』や『からくりサーカス』など数々のヒット作を生み出しますが、プロになった今でも「人物はまず目から描く」という安彦さんの教えをずっと守り続けているそうです。

 

※追記

この記事をアップした後、原作者の高千穂遙氏ご本人から「よく調べてありますが、いくつか誤りもあるようです」と正しい情報を教えていただいたので訂正しました(「小説出版の経緯」「安彦氏に絵を教えた件」「シナリオ作りに関する役割」の3ヵ所)。

高千穂遙さん、ご指摘ありがとうございました!