ひたすら映画を観まくるブログ

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友達と映画を観に行ってケンカになったことはありますか?


どうも、管理人のタイプ・あ〜るです。

突然ですが、皆さんは誰かと映画を観に行った時に、意見が食い違って揉めたりしたことはありませんか?例えば、仲のいい友人と一緒に映画を観に行って、その帰りに感想を話し合ったら、相手は「すごく面白かった!」と感動しているのに自分はそうでもなかった、とか。

こういう時って、相手は「どこがどう感動的だったか」を興奮気味に話しかけて来るんですけど、自分は「あまり面白くなかった」と思っているのでリアクションも薄めというか、むしろ「いや、つまんないんだけどなあ…」と内心テンションは低くなりがちじゃないですか?

でも、「好きな映画を他人に貶されたら嫌な気分になるだろうな」という気持ちもあるため、あまりダイレクトに批判したりせず、一応「ふんふん、なるほどね」と話を聞きながら、なるべく肯定的な雰囲気に持っていこうとするわけですよ。

とは言うものの、多少は反対意見も言いたくなるじゃないですか?「自分はこういう風に感じた」って。それに対して「やれやれ、この映画の素晴らしさが分からんとは(薄笑)」みたいに上から目線で接して来られたら、やっぱりさすがに腹が立ちますよね(^_^;)

ましてや「感動できないお前が悪いんじゃボケ!」などと言われようものなら、いくら仲のいい友人同士でもケンカになってしまう可能性は十分あるでしょう(そこまで熱くなる人は滅多にいないと思いますがw)。本日は、「そういうことにならないためには、どうすればいいのか?」というお話です。

上の画像は島本和彦先生の漫画アオイホノオ』(第6巻)のワンシーンで、主人公の焔燃(ホノオモユル)が友人(ジョウ)と映画を観に行って(ちなみにマイケル・ダグラス主演の『ランニング』)、ジョウは感動して号泣したのに、焔は全く感動できず、上映後に「あの程度で泣くなんて!」とジョウを叱責している場面です。

『ランニング』(1980年)とは、「冴えない中年マラソン・ランナーが、妻との離婚問題をきっかけに、オリンピック出場めざして奮闘する姿を描いたヒューマン・ドラマ」ですが、実は焔燃は、過去に『マイ・ウェイ』(1975年)という同じ系統の映画を観ており、「『マイ・ウェイ』の方がもっと感動的だった」と考えてたんですね。

つまり「俺はもっと感動的な映画をすでに観てるんだから、それ以上に感動的でなければ泣けない!」というわけです。まあ、僕も含めて映画オタクにはこういう面倒な人が多いんですけど(笑)、焔燃の友人ジョウは「感動できないのはお前に何かが欠けているからだ!」と猛反論。


さらに「この映画の良さが分からないなんて、お前は人間の気持ちを全く理解できていない!」「お前自身に欠陥がある!」などと罵倒しまくり、焔燃はこれまでの人生を全否定されたような気分になったという(映画に感動できなかっただけなのに…)。


でも、本当にジョウが言っているように「映画を観て感動できなかったら、感動できないヤツが悪い」のでしょうか?そもそも同じ映画を観ているのに、感じ方が違うのはなぜなのか?実はこの問題、色んな条件や要因が重なってて、一概に「こういうことだ」とは言えないんですよね。以下、具体的に検証してみましょう。

まず、上記の焔燃の場合は、『ランニング』を観る前に『マイ・ウェイ』を観ていて、「『マイ・ウェイ』の方が”父親マラソン映画”として質が上だ!」と評価しています。これだけなら、「過去に同じような映画を観ているから」で説明できそうなんですが、実は友人のジョウも同じく『マイ・ウェイ』を観てるんですよ。

その上で、「『マイ・ウェイ』なんて曲がいいだけだ!」「お前は曲に騙されてるんだ!」と断言している。つまり「同じような映画鑑賞歴を持つ二人が同じ映画を観ても評価が一致するとは限らない」ということです。もちろんこれは漫画の話ですが、現実でもこういう状況は珍しくありません。

そして、もし現実にこういう状況になった場合、議論はずっと平行線のままで、解決することはほぼ無いんですよね。なぜなら、お互いに背負っている「文化的バックグラウンド」や「個人の感受性」や「思想的ポジション」などが全く異なるからです。

もちろん、「年齢」や「性別」によっても感想は違うものになるわけで、そう考えると「映画を観て”面白い”あるいは”面白くない”と評価がわかれるのはむしろ当たり前」であり、そこで対立してもあまり意味がないと思うんですよ。

もしお互いに「異なる意見を受け入れる心構え」みたいなものを持っていれば、争いは起こらないはずなんですけど、どうしても「自分の主張が正しいことを認めさせたい!」という意識が働くのか、最終的には「この面白さを理解できないお前が悪い!」的な”人格攻撃”に至ってしまうんでしょうねえ。

特に最近はSNSが発達したことで、そういう状況が余計に目に付くようになりました。例えば、去年の夏に大ヒットした『シン・ゴジラ』の場合、僕自身は非常に楽しめたんですが、その一方で「面白くなかった」とか「どこが面白いのか良く分からない」という意見もチラホラと。

それに関して「まあ確かに、”家族愛”や”恋愛要素”などをわざと排除したせいで、従来の怪獣映画に見られた”明快なエンタメ性”は薄まったかもしれない」、だから「”良く分からない”という人がいても不思議じゃないよなあ」と思ってたんですよ。

ところが、「面白くない」と感想を述べた人に対して「いや、この映画の面白さが分からないやつは云々」という批判が相次ぎ、何となく「面白いと言わなきゃいけない雰囲気」みたいなものが出来上がっていったんですね。そういう状況を見て僕は「何か違うんじゃない?」と感じたわけで。

また、逆パターンとしては同じく昨年大ヒットした『君の名は。』の場合、今度は「面白くない」と思ってる人が「面白かった」と言う人に対して、「この程度の映画で感動してるヤツはレベルが低い!」などと批判していたり。これってもう映画の評価じゃなくて、他人の感想にケチを付けてるだけじゃないですか?

「面白い」と感じた人が素直に感想を語ったり、「面白くない」と感じた人がその理由を説明するのは、それぞれ自由にやればいいと思います。しかし、個人の人格を否定したり、ましてや誹謗中傷するような行為は見ていて気持ちのいいものではありません。

映画の中身について議論し合うならまだしも、互いの感性を否定し合うことがメインの言い争いは虚しいだけだし、もしもこういう行為に巻き込まれてしまった場合、極めて不毛な時間を過ごすことになってしまうので、それが嫌なんですよね。

ちなみに個人的な話をすると、以前、僕は友人のS田君(重度の映画マニア)と一緒に映画を観に行く機会が多かったのですが、好きな映画のジャンル(嗜好)が微妙に異なるため、場合によってはかなり意見がわかれていました。

そのせいで、映画を観終わった後は毎回どこかのファミレスで2時間ほど不毛な議論を繰り広げるハメに陥っていたのです。そういう状況に疲れ果てた僕は、ある時期からもう一人の友人K村君(野球好きの一般男性)も連れて行くことにしました。

K村君は特に映画に詳しい人ではありません(ごく普通の会社員)。ただ、二人だけで観に行っている時は「どちらの意見が正しいか?」という”正解を決める議論”になりがちだったのに対し、「普通の人の意見」を取り入れ三人体制になったことで、「どういう評価が多いのか?」という”多数決の議論”に変化したのです。

そもそも同じ映画を二人で観て「面白い」「面白くない」と評価が分かれたとしても、それはむしろ当然であり、「どちらの意見が正しいのか?」って話じゃないはずなんですよ。映画の感想に”正解”なんて存在しないし、捉え方は人それぞれなんだから。

(「木根さんの一人でキネマ」より)
なので例えば、ある映画を観て僕は「面白くなかった」と考え、S田君は「面白かった」と評価した場合、残ったK村君が「面白くなかった」と言えば、とりあえずこの場では「面白くないという意見が最も多い」となって一応収まるわけです。

もちろん、逆に僕の意見が否定される場合もありますが、それはそれで”他の考え方”を知るいい機会でもあるし、なにより1対1の場合は「この映画の面白さを理解できないヤツはお前だけだ!」などと決め付けられ、なかなか”着地点”が見出せず、長時間話してても疲れるだけだったんですよねえ。

でも、ここへK村君が加わってくれたおかげで「う〜ん、まあそういう意見も無くはないだろうな」とS田君も渋々ながら納得してくれるようになり、個人的には非常に助かっています。K村君ありがとう!

というわけで本日の結論は、

「映画を観に行く時は三人以上で行け!もしくは一人で行け!」

これが”争いを起き難くさせるベターな対応策”だと思います(^_^)


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