どうも、管理人のタイプ・あ~るです。
さて本日、BS12(トゥエルビ)で劇場アニメ『王立宇宙軍 オネアミスの翼』が放送されます。『オネアミスの翼』と言えば、『新世紀エヴァンゲリオン』などで知られるアニメ制作会社「ガイナックス」が初めて手掛けた長編SF映画で、1987年に公開されるや各方面で話題となり、ハリウッドでもプレミア上映されるなど注目を集めました。
しかし驚くべきはその制作スタイルで、「総製作費8億円!」「音楽監督には『戦場のメリークリスマス』の坂本龍一を起用!」などバンダイが社運を賭けた超大作映画にもかかわらず、当時まだ24歳だった山賀博之を監督に抜擢し、他のスタッフも自主制作アニメの経験しかないような若者ばかりだったのです。
普通、これぐらい大規模なプロジェクトになると、経験豊富で実績もあるプロフェッショナルに任せるのが当たり前だと思いますが、一体どうしてこんなことになったのでしょうか?というわけで本日は、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』が誕生するまでの特殊な事情について色々書いてみたいと思います。
時は1979年。後に『王立宇宙軍 オネアミスの翼』で監督を務める山賀博之さんは当時まだ新潟の高校生でしたが、この頃からすでに「将来は映画監督になろう」と考えていたそうです(理由は「金を稼ぐ手段として最も自分に合っていると思ったから」とのこと)。
そのため、近所の本屋に行って映画雑誌(「スクリーン」)を立ち読みしていると、淀川長治のエッセイに「同じ映画を10回観れば誰でも映画監督になれる」と書いてあったらしい。それを読んだ山賀さんは、早速『がんばれ!ベアーズ 特訓中』を鑑賞(当時、地元の映画館でたまたま上映していたため)。
そして、「7回目~8回目以降は映画を成り立たせるためのセオリーとか、約束事がよく見えるようになってきた。”あそこでああいうシーンを入れるなら、その前にこういうカットを入れなきゃダメだろう”みたいな。そして10回観終わった頃には”なるほど、映画ってこういう風に出来ているのか”という感じで、構成や仕組みが完全に理解できたんです」とのこと。
そこから本格的に興味を持った山賀さんは、「よし、これからは必ず10回観るぞ!」と心に決め、”色々な映画を10回ずつ観る”という習慣を卒業するまで続けたそうです(本人曰く、「だから高校時代は1日中映画ばかり観ていましたね」)。
その後、大阪芸術大学芸術学部映像計画学科に入学した山賀さんは、新潟から引っ越して大阪のアパートに住むことになったんですが、大家さんの部屋へ挨拶に行った時、一人の学生に出会いました。その学生こそが、後に『新世紀エヴァンゲリオン』を大ヒットさせる庵野秀明さんだったのです。
しかし、庵野さんは初対面の山賀さんに対していきなり「『機動戦士ガンダム』って見たことあります?」などと聞いてきたので、「なんだコイツは?いい歳してアニメなんか見てるのか?」とビックリしたらしい。
というのも、山賀さんは元々アニメにほとんど興味がなく、しかも大阪芸術大学に来るような人はみんな映画好きなんだろうと思い込んでいたため、「お前、映画の勉強しに来たんじゃないのか?」と訊ねました。しかし庵野さんは映画の話をしないでウルトラマンやアニメの話ばかりしていたのでますます「変なやつだなあ」と思ったそうです。
それからしばらくして、山賀さんはバス停でバスを待っている庵野さんを目撃しました。その時、なぜか手に持ったライターの火をぼんやり見つめており、山賀さんと一緒にいた別の学生は「庵野って気持ち悪いよなあ」「あいつタバコ吸わないくせに、なんでライターなんか持ち歩いてるんだよ…」と宇宙人を見るような目で見ていたらしい。
どうやら当時の庵野さんは周りの人たちから「気持ち悪いやつ」と思われていたようですが、山賀さんはそんな庵野さんに興味が湧いてきて、「何やってんの?」と声をかけました。すると「4枚のリピートでいけると思うんだよね」と答えたので「リピートって何?」と聞き返す山賀さん。
”リピート”とは同じ作画の繰り返しによって動きを循環させる技法で、庵野さんは「4枚の絵があれば炎の動きを表現できる」と考えていたのです。しかし、アニメの知識がほぼゼロだった当時の山賀さんには何のことやら分かりません。
すると庵野さんはカバンから紙の束を取り出して山賀さんに見せました。それは『ルパン三世 カリオストロの城』の動画で、爆発の煙や炎が描かれた複数の絵を指でめくりながら「これをパラパラってやると動いて見えるだろ?」と説明し始めたのです。
それを見た瞬間、アニメのことを全く知らなかった山賀さんは「アニメってこうやって作られていたのか!」と衝撃を受け、そこからアニメ作りに興味を持ち始めたそうです。
その後、庵野さんの知り合いの赤井孝美さんたちと8mmでペーパーアニメなどを作っていると、「DAICON 3のスタッフを探してるんだが、手伝ってくれないか?」という話が舞い込んで来ました。当然、何も知らない山賀さんは「”大根”ってなに?」というリアクション(笑)。
「DAICON 3」とは、1981年に大阪で開催された第20回日本SF大会のことで、「会場で自主制作アニメを上映したい。そのためのアニメーターを探しているんだ」とのこと。すると庵野さんがその場で紙にサラサラっとパワードスーツを描いて「こんな感じですか?」と動かして見せたのです。
それを見た大会の実行委員(武田康廣)は「すごいやん!」と大絶賛。「すぐ担当者に会ってくれ」と言われて連れて行かれた4階建てのでっかい家。そこにいたのが、後に『王立宇宙軍 オネアミスの翼』のプロデューサーを務める岡田斗司夫さんでした。
岡田さんは「とにかく凄いアニメを作りたいんや!」と力説し、「あの漫画のあのキャラを出してくれ」とか「あの特撮番組のあのメカを出してくれ」など次々と要望するものの、庵野さんは「そんなに描けませんよ!」と不満顔。
そこで山賀さんが交渉役になり、「ではこのシーンはこういう感じでいきましょう」とか「岡田さんの案はこういう具合に組み入れます」などと意見をまとめ、庵野さんと赤井さんが作画を担当し(山賀さんも背景を描いた)、なんとかDAICON 3オープニングアニメを完成させたのです。
こうして自主制作アニメを作った山賀さんは「次はプロの現場を経験したいな」と考えました。ちょうどその頃、DAICON 3を見たアニメ関係者の間で「すごい素人がいるぞ」と話題になっており、「『超時空要塞マクロス』という新作アニメに参加しないか?」と依頼が来ていたのです。
しかし、当時の庵野さんと赤井さんは自主制作映画『帰ってきたウルトラマン』の撮影で忙しくて参加できません。そこで山賀さんが「じゃあ俺が行こう」と東京へ行くことになりました(山賀さんは「プロの技術を学んで自分たちのアニメに活かしたい」と考えていたらしい)。
ところが、『マクロス』の現場へ行ってみたら大変な人手不足で、まだ学生の山賀さんにオープニングの絵コンテを描かせるわ、原画や動画を描かせるわ、セルの色を塗らせるわ、挙句の果てには作画の回収や発注作業までやらされたそうです(本人曰く「おかげでアニメ作りのスキルを一通り身に付けることが出来た」とのこと)。
そしてとうとう、最も重要なポジションの”演出”を任されることになりました。それが第9話「ミス・マクロス」です。そこで山賀さんはとりあえずアニメーター不足をなんとかしようと考え、赤井さんに「誰か絵の上手いやつを知らないか?」と訊ねたら、「高校の後輩で東京造形大学に行ってるやつがいる」と。それが前田真宏さん(後に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』や『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の監督を務める)でした。
さらに前田さんの先輩として貞本義行さん(後に『ふしぎの海のナディア』や『新世紀エヴァンゲリオン』などでキャラクター・デザインを担当)もやって来たのです。この二人の絵を見た山賀さんはあまりの上手さにビックリ仰天!「こんなすごい絵を描くやつらが同世代にいるなんて…!」「天才だ!」と衝撃を受けたらしい。
しかし、当時の前田さんと貞本さんはアニメに関しては全くの素人で、いくら絵が上手くてもいきなり原画を描かせるなんて通常はあり得ません。それでも山賀さんは「自分が演出を任されたんだから…」と勝手に二人に原画を依頼し、どんどん作業を進めていきました。
そうしたら元請けのタツノコプロから「勝手なことをするな!」とクレームが入り、なんと山賀さんは『マクロス』をクビになってしまったのです(でも、その頃には大学に戻って「DAICON4」の準備をしなければ…と考えていたので、「分かりました」とあっさり辞めて大阪へ帰って来たらしい)。
そして山賀さんは、プロの現場で得たノウハウを存分に活用し、庵野・赤井・前田・貞本という4人の天才に絵を描かせ、着々と「DAICON4」のOPアニメを作っていきました(しかも『マクロス』を辞める前に、板野一郎や美樹本晴彦などに原画を発注していたのだから凄い!)。その結果、プロの作画を凌駕するような、とてつもないクオリティの自主制作アニメが完成したのです。
DAICON4の出来栄えに手応えを感じた山賀さんは「このメンバーならもっとすごいアニメを作れるに違いない!」と確信し、次回作の構想に着手しました。しかし岡田斗司夫と手を組み「16mmで40分程のオリジナルビデオ作品」「予算は2000万円ぐらい」みたいな企画を考えて色々な会社に持ち込むものの、なかなか実現には至りません。
そんな頃、バンダイの渡辺繁さんに企画を見せる機会がありました。渡辺さんは当時まだ入社3年目の新人でしたが、バンダイが新たに立ち上げた映像部門の新レーベル「EMOTION」を担当していたので、たまたま知り合いだった岡田さんが「こんな企画があるんだけど…」と提案したのです。
それを見た渡辺さんは「面白そうだ」と感じ、さらに岡田さんが「ゆくゆくはスタジオを立ち上げて劇場アニメを作ろうと考えている。よかったら一緒にやらない?」と誘ったところ、「じゃあやってみようか」と乗り気になったそうです(渡辺さんと岡田さんはほぼ同世代なので話がしやすかった模様)。
とは言え、当時の渡辺さんは平社員なので企画を通すのも一苦労。エレベーターで一緒になった役員に話しかけてみたり、同期の鵜之澤伸(後にOVA『機動警察パトレイバー』のプロデューサーになる)に相談したり、試行錯誤を繰り返しました。
そんな渡辺さんの努力が実ってパイロットフィルムを作ることが決まり、制作拠点として高田馬場のマンションの一室にスタジオを設立。社名は米子市の方言で「大きい」を意味する「がいな」から「ガイナックス」と名付けられました(1984年12月)。こうして、後にアニメ界を席巻する株式会社ガイナックスが誕生したのです。
それから約4カ月後の1985年4月。完成した4分程のパイロットフィルムを携え、山賀さんと岡田さんはバンダイの山科社長や重役たちがズラリと並ぶ役員会議に出席しました。岡田さんはその席上で、作品の企画意図やアニメ界の市場分析、今の若者たちが何を求めているか、さらに何故この作品が必要なのか等を1時間以上に渡って熱弁しまくったそうです。
岡田さん曰く、「この日のために何度も何度も話す内容を考え、徹底的に検証し、全てのセリフを覚えてプレゼンした」とのこと。そして岡田さんの渾身のプレゼンを聞いた山科社長は「何が何だかよく分からないけれど、何が何だか分からないところが逆にいい」と制作を認めました。
ただし、この時点で劇場用作品を検討していたものの、もし正式に決まればバンダイ初の自社製作映画となるわけで、判断は慎重にならざるを得ません。「制作費は全部でいくらかかるんだ?」と訊ねる山科社長に、山賀さんは「たしか『風の谷のナウシカ』は3億6000万円だったな…」と考え、「ナウシカより少ない予算じゃ嫌です」と答えたらしい(つまり「最低でも3億6000万円かかる」とw)。
これに対してバンダイ側は「とりあえず1985年末までに作業した設定やシナリオや絵コンテ製作の費用は出す」という”暫定的なゴーサイン”を下しました(大企業と言えども、さすがに3億6000万円もの大金をポンと出すわけにはいかなかった模様)。なので、最終的に「やっぱり中止しよう」となる可能性もあったのですが…
岡田さん曰く、「そうならないようにするために、とにかくバンダイにお金を出させることが肝心だった。シナリオ開発費として〇十万円とか、パイロットフィルム制作費として〇百万円とか、ちょっとずつでも金を出せば、”その金はどうやって回収するんだ”という話に絶対なる。そうなったらもうバンダイは引き返せない…と渡辺さんが言っていた」とのこと(悪いこと考えてるなあw)。
さて、暫定的とは言え一応ゴーサインは出たので、ガイナックスのメンバーは作業をスタート。この頃、助監督として樋口真嗣さんが参加していました。樋口さんといえば、後に『平成ガメラ』の特技監督や『シン・ゴジラ』などで監督を務めるクリエイターですが、当時は二十歳そこそこの若者でした。そんな樋口さんの目に『王立宇宙軍』の制作状況はどう映っていたのかというと…
「最初は”異世界のデザイン”から始めたんですよ。でもペース配分がメチャクチャで、リイクニが使っている食器のデザインを考えるだけで2ヶ月かかったかと思えば、最後のロケット打ち上げのシーンでは時間が足りなくなって1週間で作ったりとか…大事なのはそっちなのに(笑)。恐ろしく効率の悪い作業でしたね」と振り返っていました。
ただし山賀さんは「本格的な作業に入る前の準備期間でたっぷり時間を使えたのが良かった」「むしろ実質的な時間の大半はデザインに費やしたと言ってもいい」「デザインに費やすことで、作品全体のコンセプトや演出意図などを作画する人に汲み取ってもらおうという方法論ですね」とコメント。
また、ロケットや戦闘機など大きなものからコップやお金などの日常の品々に至るまで、ありとあらゆる物をデザインしまくった結果、『王立宇宙軍』は画面全体が凄まじい情報量で埋め尽くされたのですが、実はこれも山賀さんの思惑通りだったらしい。
山賀さん曰く、「DAICON4で試みたのは、短時間の中で観客が処理し切れないほどの膨大な情報を見せたらどのような効果があるのか?という実験だった。『王立宇宙軍』で使った技術はそれの応用です。つまり『王立』の表現の多くはDAICON4で実験済みだったんですよ」とのこと。すごいな!
その後、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』は1986年1月に劇場用長編アニメとして制作することが正式に決定し、本格的な作画作業に突入しました(なお、赤井さんは「8mmの自主制作アニメの次が、なんでいきなり35mmの劇場アニメになるんだよ!?」と納得いかなかったらしいw)。
そして貞本義行さんは大学卒業後に、テレコム・アニメーションフィルム(大塚康生、宮崎駿、高畑勲ら東映動画系のスタッフが集って『カリオストロの城』や『じゃりン子チエ』などを制作したスタジオ)に入社していましたが、『王立宇宙軍』に参加するために退社。『オネアミスの翼』ではキャラクター・デザインと作画監督を担当することになりました。
ちなみに貞本さんがテレコムに入社した際、あまりにも絵が上手すぎて同期の新人アニメーターたちが自信を失い、「あんな上手い人がいたら、もう僕なんかやっていけません」と言って次々と辞めそうになったらしい。
当時、新人を指導していた大塚さんが慌てて貞本さんを呼んで、「君はいったい何者なんだ?」と問い詰めるほどだったそうです(後に大塚さんは「今まで色んな人の絵を見てきたが、最初から抜群に上手かったのは宮崎駿と月岡貞夫、そして貞本義行の3人だけだ」と証言している)。
こうして山賀博之監督のもとに、庵野秀明・赤井孝美・貞本義行・前田真宏・樋口真嗣などアマチュア自主映画グループ「DAICON FILM」に関わったメンバーが続々と集結!途中で予算が底を尽き、「制作中止」の危機に追い込まれるものの、岡田斗司夫らがあちこちから借金しまくって何とか作業を続け、ついに『王立宇宙軍 オネアミスの翼』は完成しました(1987年2月4日・初号試写会実施)。
というわけで、『オネアミスの翼』が生まれるまでの経緯をざっくり書いてみたんですが、映画を作った経験もない24歳の若者が、総製作費8億円の超大作映画の監督を任され、見事に作り上げてしまうという快挙は後にも先にも例がなく、参加した他の若者たちも含めて、本当に素晴らしい”偉業”だと思います。