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『機動警察パトレイバー』シリーズと伊藤和典氏の証言

パトレイバーと伊藤和典氏

パトレイバー伊藤和典


どうも、管理人のタイプ・あ~るです。

さて、本日8月10日は8(パ)と10(ト)でパトレイバーの日」だそうです(2018年に一般社団法人及び日本記念日協会により認定・登録された)。

機動警察パトレイバー』といえば警視庁特車二課の面々が活躍するロボットアニメですが、1988年に最初のOVA(アーリーデイズ)が発売されてから今年で35周年ということで、劇場版2作品が特別パッケージのBlu-rayで復刻したり、富士そばとのコラボなど様々なイベントも企画されているらしい。

パトレイバーと富士そばのコラボ

パトレイバー富士そばのコラボ

というわけで、本日は『機動警察パトレイバー』のOVA版と劇場版の脚本を書いた伊藤和典さんが「TVシリーズの脚本も担当することになって非常に苦労した」というエピソードを書いてみたいと思います。

なお、劇場版の『機動警察パトレイバー the Movie』と『機動警察パトレイバー 2 the Movie』については過去に関連記事を書いていますので、興味がある方はご覧ください。↓

type-r.hatenablog.com

type-r.hatenablog.com

さて、劇場版『機動警察パトレイバー the Movie』が公開されたのは1989年の7月です。ところが、TVシリーズの制作が決まったのは同年の5月でした。

それを知らされた伊藤和典さんはビックリ仰天。なぜならパトレイバーは劇場版の1作目を作って終わりだろうと思っていたからです。

しかもオンエアは同年の10月!たったの5カ月しかありません。これがどれぐらい厳しいスケジュールかと言うと、新しくテレビアニメをスタートさせるには通常1年程度は必要と言われています。

もっと長くかかる場合もありますが、最低でも1年ぐらい前から制作に入らないと放送に間に合わないし、ある程度のストックを作っておかなければ毎週1回のTVシリーズに対応できないからです。

ところが、『機動警察パトレイバー』のTVアニメは急に決まったらしく、プロデューサーによると「枠は東京ローカルの夕方で再放送枠みたいなところ。局の都合は分からないけど、割と突然空いたような印象だった」とのことなので、もしかしたら元々放送開始予定だった新番組が何らかの事情で急にボツになったのかもしれません(つまり穴埋め的な感じ?)。

 

そんな慌ただしい状況の中、プロデューサーは何とか制作体制を整えようと奔走しましたが、押井守監督からは「TVシリーズなんてやりたくない」と早々に断られ、制作スタジオも全く決まらず、時間だけがどんどん過ぎていきました。

最終的にはサンライズに引き受けてもらい、どうにか制作拠点は決まったものの、脚本を書いた伊藤和典さんによれば「本当はやりたくなかった」とのこと。しかし、「自分たちで始めた企画だから最後まで責任を持たなくては…」と考え、結局やることにしたそうです。

TV版をやることになった時、現場に”パラシュート降下”したヘッドギアのメンバーは僕だけだったんですよ。高田明美出渕裕も一歩引いたところでの作業なわけでしょ?ゆうきまさみはマンガの連載をやってるし、押井守はさっさと逃げちゃうし。だから「おいらが踏ん張らないと!」という悲壮な使命感みたいなものはあったかもしれない。

(「機動警察パトレイバークロニクル」より)

こうしてTVアニメ版『機動警察パトレイバー』の脚本を書くことになった伊藤さんですが、「当初は2クール(全24話)の予定だった」とのこと。そのため「香貫花がやって来て帰るまでの物語にしよう」と考えてシリーズ全体の構成を組み立てたそうです(実際に24話で香貫花は帰国している)。

ところが、途中で突然「4クールに延長が決まった」と言われて大慌て!なぜなら24話以降のストーリーを何も考えていなかったからです。伊藤さんは「この時に一度心が折れた」と語っており、このままオリジナルの脚本を書き続けることに限界を感じたらしい。

そこで、「ゆうきまさみさんのマンガ版のエピソード(グリフォン編)を使わせてもらおう」と決めて、以降は主にマンガ版を元にしながらシナリオを書いていったそうです。

要するに、中盤でグリフォン編になったのは2クールから4クールに延長が決まり、僕が力尽きそうになって「ごめん、ちょっとここで息継ぎさせて!」ということなんですよ。マンガのネタをもらってきて、そこでちょっとネジを巻き直せた。

オリジナルで脚本を書くのとマンガ原作があるのとでは、全然違いましたね。だって、そこにセリフがあるんだもの(笑)。カット割りもあるんだもん。あとはテレビのサイズにどういう風に収めるかってことだけでしょ。よく言うんだけど、マンガの原作があるシナリオと、全くのオリジナル作品のシナリオとで、ギャラが一緒なのはおかしいって(笑)。

(「機動警察パトレイバークロニクル」より)

※なお伊藤さんはパトレイバーのマンガ版を「原作」と表現していますが、厳密に言うと原作じゃないんですよね(便宜上そういう言い方をしているのでしょう)。

 

こうして、何とかTVシリーズを乗り切った伊藤さんでしたが、「じゃあ次は新しいOVAを…」と言われた時には「完全に疲弊してましたね。劇場版が終わった直後にTVシリーズが始まって、2クールだと思っていたら4クールに伸びて、それが終わると今度は新OVA…」「どんどんゴールを先に持って行かれて、ハーフマラソンのつもりで走っていたのに、いつの間にかフルマラソンになっていた」と当時の心境を語っていました。

なので、新OVAが終わって劇場版の2作目(『機動警察パトレイバー 2』)の話が出た時には、1作目のように押井監督のやりたいことを制限したりせず、「逆に”もう早く終わらせて!押井さんの好きにしていいから!”みたいな感じだった」とのこと。

そして押井監督も「本当に何をやってもいいんだな?」とノリノリでストーリーを考え、その結果パト2はあんな感じの映画になったというわけです(ちなみに試写を観た伊藤さんは「これってパトレイバーなのか?」「押井さんの戦争研究論文にしか見えない…」と思ったらしい)。

 

このように「僕の30代はほぼパトレイバーの仕事で終わってしまった」「まだ若かったから出来たけど、今だったらもう無理」と語る伊藤和典さんですが、「それでも脚本を書いてて面白いし、第2小隊の連中もみんな好き」とのこと。

ちなみに伊藤さんを含むヘッドギアのメンバー(ただし押井さんは除くw)が集まって『PATLABOR EZY』というプロジェクトを2017年に立ち上げたんですが、これは一体どんな内容なのでしょう?

新しいプロジェクトを立ち上げた理由は、このままだと『パトレイバー』が潰えてしまうという危機感があったからですよ。例えば他のロボットアニメだったらヒットすれば次々と新作が作られていくじゃないですか?だけど『パトレイバー』はなぜかパタッと終わってしまった。だからオリジナルを作った僕らが最後にもうひと踏ん張りして『パトレイバー』を再起動させなきゃいけないと思ったんです。

(「機動警察パトレイバー 泉野明×ぴあ」より)

『PATLABOR EZY』に関しては今のところ「2030年頃を舞台にした物語」ということぐらいしか分かりませんが、出渕裕さんによると「早ければ2024年に公開できるかも…」とのこと。果たしてどんな内容になるのか、期待して待ちたいと思います。

 

宮崎駿監督のピークは『もののけ姫』だった?

もののけ姫

もののけ姫


どうも、管理人のタイプ・あ~るです。

さて先日、金曜ロードショーもののけ姫が放送されました。そこで今回の記事では「宮崎駿監督のピークは『もののけ姫』だったんじゃないか説」を検証してみたいと思います。

何のピークか?っていうと「体力的な問題(&それに伴う宮崎監督の作業量)」です。

実は宮崎駿監督、1997年の『もののけ姫』公開時に”引退”を表明してるんですが(何度目だw)、その理由を以下のように語ってるんですよ。

自分のアニメーション監督の仕事は、アニメーターとしての作業が必要だということでやってきました。全作業時間の内訳を正確に言うと、5分の4ぐらいがアニメーター(原画チェック)の仕事なのです。

ほとんどの時間は、原画チェックに取られているのですよ。その合間に絵コンテを描くのであって(笑)。ですから、その原画チェックという作業が今の自分の能力と体力ではもう無理なので、そういう演出方法を続けるのは不可能ということです。

そして自分は他の演出方法を知らない。だから、ここで身を引いた方がよいという風に考えたわけです。

(別冊COMIC BOX vol.2「もののけ姫を読み解く」より)

「原画チェック」とは、アニメーターが描いた原画の上に紙を重ねて顔や動きを修正したり、場合によっては最初から全部描き直す(全修)作業のことですが、宮崎監督はこれを全てのカットでやってたんですね。凄すぎる!

何が凄いかっていうと、アニメーションの制作では通常「作画監督」と呼ばれる人が原画をチェックしていて、『もののけ姫』でも3人の優れたアニメーターが作画監督を務めていました。

でも宮崎監督の現場では、まず宮崎監督が自分で原画をチェックし、それを作画監督が清書して、さらにその絵を別の作画監督がチェックする…という非常に手間のかかる工程を経ていたのですよ。

なにしろ『もののけ姫』の総カット数は1676カットもありますから、普通のやり方では一人で全てのカットを修正するのは大変…というかほぼ不可能です。そこで宮崎監督は修正原画を出来るだけ素早く描き上げ(ラフ状態)、それを作画監督が清書(クリンナップ)する…という流れになっていたらしい。

とは言え、その方法でも膨大な作業には違いありません。宮崎監督は毎朝スタジオに来ると机の前に座ってひたすら原画をチェックし続け、真夜中までずっと机から離れることはなかったそうです(毎日驚異的なスピードで修正原画を描きまくっていたという)。

もののけ姫

もののけ姫

もののけ姫』の制作時にはそんな激務を何ヵ月も続けた宮崎監督でしたが、当時すでに56歳。とうとう体力的な限界を感じて引退を表明……と思ったらすぐに撤回して(笑)、千と千尋の神隠しに取り掛かるんですね。

しかし、『千と千尋』の頃にはもう全ての原画を修正する体力はありませんでした。そこで作画監督に多くのカットを任せて、自分の修正は”可能な範囲にとどめるスタイル”へ変更。つまりピーク時に比べると作業量が大幅に減ってしまったのですよ。

当然ながら以降の作品に関しても、歳を取るごとにどんどん原画修正の量は減少し、最新作の君たちはどう生きるかでは「主に絵コンテ作業に注力した」と言われている通り、ほとんどのカットを作画監督本田雄さんに任せていたようです(まぁ、いくつかのカットは宮崎監督も修正していると思いますが…)。

※映画公開後の本田さんの証言によると、かなり多くのカットを修正していたらしい。

というわけで、宮崎監督が隅々まで深く作画に関わった作品は『もののけ姫』が最後であり、そういう意味でも極めて宮崎駿度数”が高い作品と言えるでしょう(ちなみに押井守監督は「画のクオリティのピークは『魔女の宅急便』、成熟度で言えば『千と千尋』がピークかな」と語っています)。

 

『コクリコ坂から』宮崎吾朗と宮崎駿が3年間会話しなかった理由

宮崎吾朗と宮崎駿

宮崎吾朗監督と宮崎駿監督


どうも、管理人のタイプ・あ~るです。
さて先日、金曜ロードショーで劇場アニメコクリコ坂からが放送されました。

監督を務めた宮崎吾朗さんは世界的に有名なアニメーション監督:宮崎駿さんの息子で、本作の前にゲド戦記(2006年)という映画を作っています。

つまり『コクリコ坂から』は吾朗監督にとって2作目の長編映画になるわけですが、実は前作の『ゲド戦記』の制作中に大変なことが起きていたのですよ。

ゲド戦記

ゲド戦記

もともと宮崎吾朗さんは映画監督ではなく、ジブリ美術館の館長でした。しかしオープンして2年ぐらい経った頃、「何だか物足りない気分になってきて、そろそろ辞めてもいいかなと思い始めた」とのこと。

そんな時、鈴木敏夫プロデューサーから「ジブリの若手を監督に起用して『ゲド戦記』を作りたいんだけど、吾朗くん、暇だったらオブザーバーとして参加してくれないか?」と言われたらしい。

ところが、当初監督をやる予定だった人が「僕はこういう風に作りたい」「僕が思うようにやらせてくれないならやらない」などと言い出し、なんと1年以上も打ち合わせを繰り返すことになったのです。

そしてある日、煮え切らない態度に痺れを切らした吾朗さんが「やるのかやらないのかハッキリしろ!」とブチ切れたら、「じゃあ辞める」とその人が本当に辞めてしまい、代わりに吾朗さんが監督をやることになったという。

 

しかし、それを聞いた宮崎駿さんは大激怒。「何の経験も下積みもない人間がいきなり監督になるなんて、そんなバカな話があるか!」「俺がどれだけ苦労して監督になったと思ってるんだ!」と物凄い剣幕で怒ったそうです。

それに対して吾朗さんも「一緒にやってくれるスタッフがいるんだし、絶対に出来る!」と猛反論。すると、ますますお父さんの怒りに火が付いたのか「お前に出来るわけがない!」と机を叩いて激昂し、とうとう怒鳴り合いの大喧嘩になってしまいました。

結局、『ゲド戦記』の制作中はスタジオで会っても一切会話せず、映画が完成・公開してからも互いに一言も口をきかないまま、なんと3年が経過してしまったのです(まさに「親子断絶状態」と言わざるを得ないw)。

 

しかしその間、吾朗さんに子供が誕生しました。つまり駿さんに孫が出来たのです。

 

すると「孫が生まれたことをきっかけに、3年ぐらい喋ってなかった父と喋るようになった。もし孫が生まれなかったら断絶は続いていたでしょうけど、孫を合わせないわけにもいかないので(笑)」とのこと。

そして親子の断絶期間が終了した頃、ちょうど吾朗さんは『ゲド戦記』の次の企画を検討していたのですが、なかなか題材が決まらず行き詰っていました。すると突然、宮崎駿監督がやって来てコクリコ坂から』の原作漫画を渡したそうです。

この漫画は数年前に駿さんが読んでいたもので、以前から映画化を検討していたようですが、それを息子に「やらせてみよう」と思ったのでしょう。

こうして宮崎吾朗監督の2作目は『コクリコ坂から』に決定!『ゲド戦記』の時は完全に息子を無視していた駿さんですが、『コクリコ坂から』に関しては自ら脚本を書いたり、原作で1980年代だった時代設定を1963年に変更したり、積極的に関わって来たらしい。

ところが、吾朗さんにとっては非常に難しい題材だったようで、以下のようにコメントしています。

ファンタジー要素がゼロで盛り上がりもあるんだか無いんだか分からないような地味な話だったので、何をよりどころにその時代の高校生の男の子と女の子を描いていけばいいのかをずっと悩んでいました。

だから『ゲド戦記』の時は絵コンテを3ヵ月ぐらいで終わらせてるんだけど、『コクリコ坂から』は半年以上か、もっと長くやってましたね。

父の書いたシナリオを変えていいものかどうか悩んでいたら鈴木さんに「変えてもいいんだよ」と言われ、絵コンテを半分ぐらい描いたところでもう1回考え直して、最初から全部やり直すという感じでした。

徳間書店「どこから来たのか どこへ行くのか ゴロウは?」より)

結局、2010年の4月から開始した絵コンテ作業は2011年の1月にようやく完成したものの、その時点ですでに作画作業が始まっていたそうです(『ゲド戦記』の時は絵コンテが出来上がってから作画に入ったのだが、今回はスケジュールが無いため絵コンテが完成する前に作画に入らざるを得なかった模様)。

しかし「日常芝居が多いので話をなぞるだけではつまらない映像になってしまう」「どういう風にキャラクターを動かせば面白くなるのか悩んでいた」とのことで、絵コンテと同じく作画のスケジュールもどんどん遅れていきました。

さらに、制作が追い込み段階に入った3月11日に東日本大震災が発生し、日本中が大混乱に陥ったのです(交通機関が止まってスタッフが帰宅できなくなったため、ジブリで炊き出しを行い社内保育園に宿泊したらしい)。

コクリコ坂から

コクリコ坂から

その上、原発事故の影響で計画停電の実施も発表され、ジブリ社内では「このような状況では作業もままならない」「しばらく現場を休止すべきでは?」との意見も出た模様。

しかし、それに猛反対したのが宮崎駿監督でした。「生産現場は絶対に離れちゃダメだ!封切りは変えられないんだから、多少無理してでもやるべし!こういうときこそ神話を作んなきゃいけないんですよ!」と作業続行を強く訴えたそうです。

こうして混乱が続く中、『コクリコ坂から』の制作作業は継続され、7月の公開日になんとか間に合ったのです。後に宮崎吾朗監督は「1作目の『ゲド戦記』よりも2作目の方がずっと大変だった」と語っていますが、こんなに苦労してたんですねぇ(^^;)