ひたすら映画を観まくるブログ

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宮崎駿監督のピークは『もののけ姫』だった?

もののけ姫

もののけ姫


どうも、管理人のタイプ・あ~るです。

さて先日、金曜ロードショーもののけ姫が放送されました。そこで今回の記事では「宮崎駿監督のピークは『もののけ姫』だったんじゃないか説」を検証してみたいと思います。

何のピークか?っていうと「体力的な問題(&それに伴う宮崎監督の作業量)」です。

実は宮崎駿監督、1997年の『もののけ姫』公開時に”引退”を表明してるんですが(何度目だw)、その理由を以下のように語ってるんですよ。

自分のアニメーション監督の仕事は、アニメーターとしての作業が必要だということでやってきました。全作業時間の内訳を正確に言うと、5分の4ぐらいがアニメーター(原画チェック)の仕事なのです。

ほとんどの時間は、原画チェックに取られているのですよ。その合間に絵コンテを描くのであって(笑)。ですから、その原画チェックという作業が今の自分の能力と体力ではもう無理なので、そういう演出方法を続けるのは不可能ということです。

そして自分は他の演出方法を知らない。だから、ここで身を引いた方がよいという風に考えたわけです。

(別冊COMIC BOX vol.2「もののけ姫を読み解く」より)

「原画チェック」とは、アニメーターが描いた原画の上に紙を重ねて顔や動きを修正したり、場合によっては最初から全部描き直す(全修)作業のことですが、宮崎監督はこれを全てのカットでやってたんですね。凄すぎる!

何が凄いかっていうと、アニメーションの制作では通常「作画監督」と呼ばれる人が原画をチェックしていて、『もののけ姫』でも3人の優れたアニメーターが作画監督を務めていました。

でも宮崎監督の現場では、まず宮崎監督が自分で原画をチェックし、それを作画監督が清書して、さらにその絵を別の作画監督がチェックする…という非常に手間のかかる工程を経ていたのですよ。

なにしろ『もののけ姫』の総カット数は1676カットもありますから、普通のやり方では一人で全てのカットを修正するのは大変…というかほぼ不可能です。そこで宮崎監督は修正原画を出来るだけ素早く描き上げ(ラフ状態)、それを作画監督が清書(クリンナップ)する…という流れになっていたらしい。

とは言え、その方法でも膨大な作業には違いありません。宮崎監督は毎朝スタジオに来ると机の前に座ってひたすら原画をチェックし続け、真夜中までずっと机から離れることはなかったそうです(毎日驚異的なスピードで修正原画を描きまくっていたという)。

もののけ姫

もののけ姫

もののけ姫』の制作時にはそんな激務を何ヵ月も続けた宮崎監督でしたが、当時すでに56歳。とうとう体力的な限界を感じて引退を表明……と思ったらすぐに撤回して(笑)、千と千尋の神隠しに取り掛かるんですね。

しかし、『千と千尋』の頃にはもう全ての原画を修正する体力はありませんでした。そこで作画監督に多くのカットを任せて、自分の修正は”可能な範囲にとどめるスタイル”へ変更。つまりピーク時に比べると作業量が大幅に減ってしまったのですよ。

当然ながら以降の作品に関しても、歳を取るごとにどんどん原画修正の量は減少し、最新作の君たちはどう生きるかでは「主に絵コンテ作業に注力した」と言われている通り、ほとんどのカットを作画監督本田雄さんに任せていたようです(まぁ、いくつかのカットは宮崎監督も修正していると思いますが…)。

※映画公開後の本田さんの証言によると、かなり多くのカットを修正していたらしい。

というわけで、宮崎監督が隅々まで深く作画に関わった作品は『もののけ姫』が最後であり、そういう意味でも極めて宮崎駿度数”が高い作品と言えるでしょう(ちなみに押井守監督は「画のクオリティのピークは『魔女の宅急便』、成熟度で言えば『千と千尋』がピークかな」と語っています)。

 

『コクリコ坂から』宮崎吾朗と宮崎駿が3年間会話しなかった理由

宮崎吾朗と宮崎駿

宮崎吾朗監督と宮崎駿監督


どうも、管理人のタイプ・あ~るです。
さて先日、金曜ロードショーで劇場アニメコクリコ坂からが放送されました。

監督を務めた宮崎吾朗さんは世界的に有名なアニメーション監督:宮崎駿さんの息子で、本作の前にゲド戦記(2006年)という映画を作っています。

つまり『コクリコ坂から』は吾朗監督にとって2作目の長編映画になるわけですが、実は前作の『ゲド戦記』の制作中に大変なことが起きていたのですよ。

ゲド戦記

ゲド戦記

もともと宮崎吾朗さんは映画監督ではなく、ジブリ美術館の館長でした。しかしオープンして2年ぐらい経った頃、「何だか物足りない気分になってきて、そろそろ辞めてもいいかなと思い始めた」とのこと。

そんな時、鈴木敏夫プロデューサーから「ジブリの若手を監督に起用して『ゲド戦記』を作りたいんだけど、吾朗くん、暇だったらオブザーバーとして参加してくれないか?」と言われたらしい。

ところが、当初監督をやる予定だった人が「僕はこういう風に作りたい」「僕が思うようにやらせてくれないならやらない」などと言い出し、なんと1年以上も打ち合わせを繰り返すことになったのです。

そしてある日、煮え切らない態度に痺れを切らした吾朗さんが「やるのかやらないのかハッキリしろ!」とブチ切れたら、「じゃあ辞める」とその人が本当に辞めてしまい、代わりに吾朗さんが監督をやることになったという。

 

しかし、それを聞いた宮崎駿さんは大激怒。「何の経験も下積みもない人間がいきなり監督になるなんて、そんなバカな話があるか!」「俺がどれだけ苦労して監督になったと思ってるんだ!」と物凄い剣幕で怒ったそうです。

それに対して吾朗さんも「一緒にやってくれるスタッフがいるんだし、絶対に出来る!」と猛反論。すると、ますますお父さんの怒りに火が付いたのか「お前に出来るわけがない!」と机を叩いて激昂し、とうとう怒鳴り合いの大喧嘩になってしまいました。

結局、『ゲド戦記』の制作中はスタジオで会っても一切会話せず、映画が完成・公開してからも互いに一言も口をきかないまま、なんと3年が経過してしまったのです(まさに「親子断絶状態」と言わざるを得ないw)。

 

しかしその間、吾朗さんに子供が誕生しました。つまり駿さんに孫が出来たのです。

 

すると「孫が生まれたことをきっかけに、3年ぐらい喋ってなかった父と喋るようになった。もし孫が生まれなかったら断絶は続いていたでしょうけど、孫を合わせないわけにもいかないので(笑)」とのこと。

そして親子の断絶期間が終了した頃、ちょうど吾朗さんは『ゲド戦記』の次の企画を検討していたのですが、なかなか題材が決まらず行き詰っていました。すると突然、宮崎駿監督がやって来てコクリコ坂から』の原作漫画を渡したそうです。

この漫画は数年前に駿さんが読んでいたもので、以前から映画化を検討していたようですが、それを息子に「やらせてみよう」と思ったのでしょう。

こうして宮崎吾朗監督の2作目は『コクリコ坂から』に決定!『ゲド戦記』の時は完全に息子を無視していた駿さんですが、『コクリコ坂から』に関しては自ら脚本を書いたり、原作で1980年代だった時代設定を1963年に変更したり、積極的に関わって来たらしい。

ところが、吾朗さんにとっては非常に難しい題材だったようで、以下のようにコメントしています。

ファンタジー要素がゼロで盛り上がりもあるんだか無いんだか分からないような地味な話だったので、何をよりどころにその時代の高校生の男の子と女の子を描いていけばいいのかをずっと悩んでいました。

だから『ゲド戦記』の時は絵コンテを3ヵ月ぐらいで終わらせてるんだけど、『コクリコ坂から』は半年以上か、もっと長くやってましたね。

父の書いたシナリオを変えていいものかどうか悩んでいたら鈴木さんに「変えてもいいんだよ」と言われ、絵コンテを半分ぐらい描いたところでもう1回考え直して、最初から全部やり直すという感じでした。

徳間書店「どこから来たのか どこへ行くのか ゴロウは?」より)

結局、2010年の4月から開始した絵コンテ作業は2011年の1月にようやく完成したものの、その時点ですでに作画作業が始まっていたそうです(『ゲド戦記』の時は絵コンテが出来上がってから作画に入ったのだが、今回はスケジュールが無いため絵コンテが完成する前に作画に入らざるを得なかった模様)。

しかし「日常芝居が多いので話をなぞるだけではつまらない映像になってしまう」「どういう風にキャラクターを動かせば面白くなるのか悩んでいた」とのことで、絵コンテと同じく作画のスケジュールもどんどん遅れていきました。

さらに、制作が追い込み段階に入った3月11日に東日本大震災が発生し、日本中が大混乱に陥ったのです(交通機関が止まってスタッフが帰宅できなくなったため、ジブリで炊き出しを行い社内保育園に宿泊したらしい)。

コクリコ坂から

コクリコ坂から

その上、原発事故の影響で計画停電の実施も発表され、ジブリ社内では「このような状況では作業もままならない」「しばらく現場を休止すべきでは?」との意見も出た模様。

しかし、それに猛反対したのが宮崎駿監督でした。「生産現場は絶対に離れちゃダメだ!封切りは変えられないんだから、多少無理してでもやるべし!こういうときこそ神話を作んなきゃいけないんですよ!」と作業続行を強く訴えたそうです。

こうして混乱が続く中、『コクリコ坂から』の制作作業は継続され、7月の公開日になんとか間に合ったのです。後に宮崎吾朗監督は「1作目の『ゲド戦記』よりも2作目の方がずっと大変だった」と語っていますが、こんなに苦労してたんですねぇ(^^;)

 

『風の谷のナウシカ』と庵野秀明「巨神兵のシーンは失敗だった」

巨神兵と庵野監督

巨神兵庵野秀明監督


どうも、管理人のタイプ・あ~るです。
さて先日、金曜ロードショー宮崎駿監督作品風の谷のナウシカが放送されました。

劇場アニメ版ナウシカといえば、若手時代の庵野秀明さんがアニメーターとして参加し、クライマックスの「巨神兵王蟲を薙ぎ払うシーン」を担当したことでも有名ですね。

ところで現在、庵野さんは『新世紀エヴァンゲリオン』のアニメーション監督として知られ、さらに『シン・ゴジラ』や『シン・仮面ライダー』など実写映画も撮っています。

しかし『風の谷のナウシカ』に参加する前は、イベントで上映するための自主制作アニメ(『DAICONⅣ』)を手掛けており、ほぼ素人同然の若者でした。

一応、TVアニメ『超時空要塞マクロス』で原画を描いてはいたものの、その時点ではまだ大阪芸術大学の学生で、プロとしての経験はほとんどありません。そんな庵野さんがどうして『風の谷のナウシカ』へ参加することになったのでしょうか?

当時の状況を、スタジオジブリのプロデューサー:鈴木敏夫さんは次のように語っています。

ふらりと阿佐ヶ谷にあったスタジオに何の予告もなく現れて、「俺をアニメーターにしろ」と(笑)。たぶん何かやりたかったんでしょうね。「とにかく宮崎駿に合わせろ」と。それで僕が宮さんのところへ行って「こんなやつが来てるんだけど…」って言ったら「面白いじゃん。ちょっと会ってみよう」と。そしたら急遽、宮さんがアニメーターとして彼を起用したんです。

その面接が終わった直後、僕は宮さんに訊いたんですよ、「彼の何がよかったんですか?」って。まぁ持って来た絵とか大学で作った自主制作アニメとか色々あるんですが、宮さんは「雰囲気がよかった」って。何ですかそれ?って訊いたら「テロリストみたいだ」って(笑)。こういうテロリストみたいなやつは、きっと黙々と仕事をやってくれるに違いないと。実際そうだったんですよ。

(「アニメージュジブリ展」の内覧会でのコメントより)

鈴木敏夫プロデューサー

鈴木敏夫プロデューサー

一方、宮崎駿監督は庵野さんに初めて会った時の印象を以下のように語っていました。

宇宙人が来たと思いましたよ。友人から借りた背広の上下を着てるんだけど、ハダシの足にビーチサンダルを履いてたんです。それを見た瞬間に「あ、こいつ面白い」と思ったから「(『風の谷のナウシカ』を)やれ」って言ったの。

巨神兵っていうのが光線を発射して、核爆発みたいなことを起こすんですよね。そのシーンを描くための資料に「核爆発ばっかり集めたビデオ」を持って来て、それをずーっと見てるんです。あいつ頭おかしい(笑)。家にも帰らずスタジオに住み着いて、だからあいつ一日何時間仕事したんだろう?

朝来ると机の下からハダシの足が出てるんですよ。汚い足で”原人の足”って呼んでたんです(笑)。ひび割れが走ってるぐらいゴワゴワで、風呂が大嫌いなんですよね。庵野はそういう男です。

NHK「さようなら全てのエヴァンゲリオン」より)

宮崎駿監督

宮崎駿監督

どうやら初対面から強烈なインパクトを放っていたようですが(笑)、こうして庵野さんは1983年の11月1日から『風の谷のナウシカ』の制作拠点である「トップクラフト」に入り、翌年の2月まで作業をすることになりました。

その間、ずっと会社に寝泊まりし(そもそもカバン一つで東京に出て来て住む場所もなかった)、起きている時間はひたすら原画を描き続け、腹が減ったら近所の定食屋で”あつあげ”を食べ、またスタジオに戻って仕事をする…ということを繰り返していたそうです。

なお、最初は前半の空中戦(アスベルがバカガラスを攻撃するシーン)を担当する予定でしたが、「巨神兵のシーンを誰もやりたがらないんだ」「やってみないか?」と言われ、「やらせて頂けるなら何でもやります!」と答えて決まったらしい。

ところが、後に「こんなに大変なカットだったのか!?」とビックリ仰天。作画にもの凄い手間がかかり「1週間でようやく1カット、長い時には10日ぐらいかかっていた」と語り、さらに朝起きて机の上を見たら「遅い!」「早くカット上げろ!」など宮崎監督のメモが貼ってあったとのこと(笑)。

そんな苦労の末にようやく完成した「巨神兵のシーン」ですが、実は庵野さんはいまだに納得していないそうです。一体なぜなのか?その理由を以下のように説明していました。

あれは僕の中では失敗なんです。本当に申し訳ない。細かいことですけど、原画と原画の間に動画が3コマで5枚なんですよ。宮さん(宮崎監督)の指示で「これ中5(なかご)でいい」って言われたから素直に中5にしたんですけど、なんであの時抵抗して中7(なかなな)にしなかったんだろうって…今でも後悔してます。枚数が増えて大変なのは分かるけど、中7にした方が絶対に良かった。ありゃ溶けるのが早すぎますね。

もう2枚、間にもう6コマあれば良かったんです。そうすれば完璧だったんですけど。あれは今でも悔しいですね。宮さんの中では中5だったと思うんですけど、僕は中7の方が良かったんです。あのラッシュを見た時、死にたくなりました。もう「失敗した~!」って。他の人が褒めてくれる分、余計に辛かったですね。もっと良くなったハズなのに…。あれ以来、宮さんの言うことを聞かなくなったんです。

NHKトップランナー』2004年5月9日放送回より)

庵野秀明監督

庵野秀明監督

というわけで、「宮さんの言うことを聞かなくなった」と語っていた庵野さんですが、『風の谷のナウシカ』から29年後の風立ちぬでは主人公の声を演じています(当時の記者会見で「宮さんに頼まれたら断れない」と証言)。やっぱり仲がいいですねぇ(^.^)