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映画『湯を沸かすほどの熱い愛』ネタバレ感想/ラスト解説

■あらすじ『親子3人で銭湯“幸の湯”を営む幸野家。しかし突然、父の一浩(オダギリジョー)が蒸発して銭湯は1年間も休業状態になり、母の双葉(宮沢りえ)はパン屋でパートをしながら中学生の娘・安澄(杉咲花)を育てていた。そんなある日、双葉はガンで余命2ヵ月と非情な宣告を受ける。しかし、ショックを受けつつも気丈に立ち向かい、家出した夫の捜索や銭湯の再開、学校でイジメに遭っている娘を叱咤して独り立ちさせるなど、心残りになりそうなことを次々と解決していくのだった…。「中野量太監督のデビュー作にして大傑作」と話題になった愛と感動の親子ドラマ!煙突から立ち上る赤い煙の意味とは?衝撃のラストに刮目せよ!』


※ネタバレしています。未見の方はご注意を!


本日、日本映画専門チャンネル『湯を沸かすほどの熱い愛』が放送される。この映画、中野量太監督の商業デビュー作なのだが、いきなり第40回日本アカデミー賞で優秀作品賞や優秀脚本賞他計6部門を受賞、第90回キネマ旬報ベストテンでは日本映画部門1位を獲得するなど、多くの映画賞で高評価されるという快挙を成し遂げたのだ。

もともと中野監督はインディーズとしては既にかなりの実績を積んでおり、2013年の自主制作映画『チチを撮りに』でも大きな注目を集めていたものの、その時点ではただのアマチュア監督だったのだから、本作におけるステップアップは「素晴らしい!」としか言いようがない。

ただ、僕自身は正直に言うと、当初そこまでこの映画に関心は無かった。内容が「ガンで余命2ヵ月と診断された主人公の哀しく切ない人情ドラマ」ということで、「ああ、また感動的な展開を全面に押し出した”お涙頂戴の難病ストーリー”ね」と決め付けていたのである。

しかし観てビックリ!本作は単なる”お涙頂戴の難病ストーリー”ではなく、様々な種類の”不幸”が過剰に盛り込まれた「新感覚エンターテインメント」だったのだ!以下、それらの”過剰すぎる不幸要素”を具体的に解説してみる。

まず主人公の双葉(宮沢りえ)は、夫がいきなり蒸発し、パン屋で働いていたら倒れて病院行き。診察の結果ガンで余命2ヵ月と告げられるなど、この時点でなかなかの不幸レベルを誘発している。

そして娘の安澄(杉咲花)も学校で酷いイジメを受けており、絵具を体に塗り付けられるわ、制服を隠されるわ、これまた不幸な境遇に陥っていた。

さらに、行方不明になった夫の捜索を探偵(駿河太郎)に依頼し、やっと見つけたと思ったら他の女に産ませた子供(鮎子)と暮らしていて、しかもその子の母親は家を出て行ってしまっため引き取ることに…。

溢れんばかりの不幸エピソードはまだまだ続く。双葉は安澄と鮎子を連れて旅行に出かけるのだが、その目的はなんと安澄の”本当の母親”に会うこと。つまり、双葉と安澄は実の親子ではなかった!えええ〜!?

衝撃の真相にショックを受ける安澄だったが、本当の母親の君江(篠原ゆき子)に会うと、彼女は聴覚障害者で「安澄を生んだものの育てられないと思い、辛い気持ちのまま家を出て行った」ことを知る。

しかもその後、実は双葉自身も幼い頃に母親に置き去りにされていたことが発覚!やがて双葉の病状はどんどん悪化し、ついに入院することになってしまう。そんな時、探偵が「双葉の実母の行方」を突き止めた。

「最期に一目だけでも本当のお母さんに会いたい…」という双葉の願いをかなえるため、車に乗せて連れて行くものの、まさかの面会拒否!悲しさと辛さのあまり、思わず実母の家の窓ガラスを割ってしまう双葉。

精神的なダメージも加わり、とうとう寝たきり状態になってしまった双葉のところへ毎日見舞いにやって来る安澄だが、もはや出来ることは何もない。そして、少しでも元気付けようと人間ピラミッドを作る一浩たちの姿を見て、双葉は「死にたくない」「もっと生きていたいよ…」と泣き崩れるのだった。

…という感じで、この映画に登場する人物はほぼ全員が何らかの「不幸」を抱えており、しかもその全てに「母親」というキーワードが絡んでいる点が最大の特徴と言えるだろう。

双葉と安澄と鮎子は、それぞれが幼い頃に母親と離れ離れになっていて、探偵の娘も母親と死別している。さらに旅の途中で出会った向井拓海松坂桃李)も「今の母親は3人目で、生みの母親は顔も知らない」という有様だ(母親の不在率多すぎw)。

もちろんこれは偶然ではなく、中野監督は初めから「母親」をテーマに物語を作ろうと決めていたらしい。監督曰く、「僕自身が母に育てられましたし、一番嘘のない素直な気持ちで商業デビューしたいという思いがあったので、最初から”母”の映画にしようと決めていました」とのこと。

その結果、本作は様々な形の母親像が入り混じる設定となり、しかも主人公の双葉は劇中で圧倒的な母性を発揮しながら、自分自身は誰の母親でもなく、さらに実の母親から拒絶されるという、二重三重に入り組んだキャラクターになっているのが凄い。

このように、本作は「不幸」と「母親」というファクターが過剰に盛り込まれた独特の世界観を構築してるんだけど、中野監督は敢えてそうしたらしい。曰く、「デビュー作なので引き算なんてせず、描きたいことを全て描き切って、お客さんを映画の中にグイグイ引き込む。それを追及してやろうと思っていました」とのこと。

この言葉通り、本作はとにかく圧倒的な「手数の多さ」で観客の心を掴みまくり、さらに序盤で張られた伏線を中盤からクライマックスにかけて丁寧に回収していく脚本の巧さが際立っている(監督自身のオリジナル脚本なのも素晴らしい)。

そしてもう一つ、本作は他の映画と決定的に違う点がある。それは「形容し難い変なシーンを入れている」ことだ。普通の感覚なら「何故そんなことをするんだ?」とか、「そのシーンって必要なの?」と観客が首を傾げそうな奇妙な場面がいくつも存在しているのが面白い。

例えば、安澄が悪い友達に制服を隠され、体操服で授業を受けている時、いきなり立ち上がって服を脱ぎ捨て下着姿になるシーン。気弱な安澄が精一杯の勇気を振り絞っていじめっ子達に抵抗を示す…という場面なのだが、なぜ服を脱ぐ?

常識的に考えて、年頃の女の子が同級生の前で下着姿なんかになったら、その後もっと苛めらるんじゃないだろうか?しかも着けてる下着を良く見ると、お母さんの双葉が「イザという時にこれを着て…」と言って渡したやつじゃん!いや、”勝負下着”ってそういう意味じゃないから!

また、「誕生日に迎えに行く」という母親の言葉を信じ、一人ぼっちでアパートの玄関の前に座り込んでいた鮎子を双葉たちが捜しに行くシーン。これまた普通に見れば”いい場面”だが、なんとオシッコを漏らした鮎子のパンツを脱がして、それをアパートのドアノブに引っ掛けて帰るのだ。

WHY?親が子供のパンツを脱がしたら、普通は持って帰るやろ?なぜ現場へ置いて行く!?「もしかして中野監督は女子の下着に異常なこだわりを持っているマニアなのか…?」と疑惑の念が湧くほどだが、実は監督の中では意味があったらしい。

確かに安澄の下着も鮎子のパンツも”物語上の必然”は無いんだけど、観客を「ギョッ!?」とさせるフックにはなっている。もしあのシーンが無ければ、単なる”いい場面”としてスルッと流れて行くだけだが、あれを見せることによって観客の心に強い印象を残しているのだ。

ただし、この手法は好き嫌いがハッキリ分かれるため、「キモい!」と拒否反応を示す人もいたらしい(当たり前かw)。

その効果の最たるものが、賛否両論を巻き起こしたラストシーンだろう。双葉の遺体を銭湯の窯に入れて「火葬」し、その熱で風呂を沸かして最後にタイトルがバーン!なるほど、『湯を沸かすほどの熱い愛』ってこういう意味だったのか!

…ってアカンやろ(笑)。さすがにこの結末は意見がわかれたようで、「コメディなんだからいいじゃない」という人もいれば、「倫理的にアウト」「途中までは感動して泣いてたけど、最後のシーンで涙が引っ込んだ」という人など、評価は様々だったらしい。

ちなみに僕が気になったのは「どっちなんだ?」ということ。あれって一見すると一浩(オダギリジョー)たちが共謀して双葉の遺体を燃やしたように見えるが、直接的な場面は映っていないし、煙突から赤い煙が出ているのもおかしい。

つまり、あのラストシーンは「最後に双葉は大好きな赤い色の煙になって天へ昇って行きました」というイメージ映像で、残された家族たちの”想像”を描いただけなのでは?…という解釈も出来るのだ。しかしその一方で、中野監督は気になる発言をしている。以下、監督のインタビューより一部抜粋↓

やっぱり映画なので、現実と虚構のギリギリの線が成立した時に大きな感動が生まれると思っていて、そこを攻めないと面白いものは生まれない。「嘘みたいだけど、こんなこともあるかもしれないな」と思ってもらえたら勝ちという。それの最たるものがラストシーンですね。あそこは実は、一線を飛び越えちゃってもいいと思って作りました。僕が映画学校時代に初めて撮った卒業制作でも全く同じことをやってるんですよ。その時はただのビックリで終わってるんだけど、今の僕ならば表現として成立させられるのではないかと思って挑戦してみたんです。
(「キネマ旬報2017年5月上旬号」より)

「一線を飛び越えちゃってもいい」という言葉を普通に解釈すれば、やはりあのラストは「倫理観の壁を飛び越えて双葉の遺体を燃やした」という意味になるのかもしれない(「今の僕ならばそれを表現として成立させられる」という言葉にも強い意志を感じる)。

しかし逆に、「現実と虚構のギリギリの線」という言葉から、「思い切って攻めた結果、一線を飛び越えて虚構の世界へ行ってしまった」「しかし観客が”現実にそういうこともあるかもしれない”と思ってくれれば勝ちなんだ」という意味にも解釈できる。

いずれにしても、観た人全てが「え?」と判断に窮するような”奇妙で印象的なシーン”を入れたことで、『湯を沸かすほどの熱い愛』は巷に溢れ返る「お涙頂戴の難病モノ映画」とは全く異なる独特の雰囲気を獲得できたのだろう。

また、宮沢りえや他のキャストの存在感も特筆すべきで、中でも安澄を演じた杉咲花(監督が彼女をイメージしてアテ書きしたらしい)は不安定な年頃の少女の”葛藤”と”成長”を見事に演じ切っており、天晴れ!としか言いようがない。

設定だけを見れば悲壮感が漂いまくるストーリーになりそうなのに、彼女たちの熱演と絶妙なシナリオ構成がユーモラスで前向きなドラマへと転化している。それが本当に素晴らしかったし、中野監督の映画をもっと観たいと思わせる見事なデビュー作だった。

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