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どうしてこうなった?実写版『進撃の巨人』を検証してみる


先日、町山智浩は実写版『進撃の巨人』をどのように評価しているのか?」という記事を書いたところ、ツイッターで拡散されたり、ブックマークや「いいね!」を多数いただくなど、非常に多くの人に読んでもらえたようで嬉しい限りである。大変ありがとうございますm(__)m
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ただ、いくつかの点で誤解があるような(誤解を与えるような書き方をしたのが悪いんだけど)気がしたので、ちょっと補足させていただきたい。


町山智浩を擁護しているのか?
この記事は実写版『進撃の巨人』の中で気になる描写を取り上げ、「なぜそうなってしまったのか?」を検証、さらに映画評論家の町山智浩氏は「出来上がった作品についてどう思っているのか?」を本人の発言等から推測したものである。

その過程で参照した情報のうち、「町山氏側から発信したもの」の方が多かったため、必然的に「町山氏の目線から見た製作現場」みたいな記事になってしまった。なので、結果として町山氏を擁護しているように見えたかもしれないが、そのような意図は特にない(町山さんの映画評は好きだけど)。

言うまでもなく、この映画に関わっている他のスタッフにもそれぞれの事情があるはずで、もしかしたら樋口真嗣監督の方も「いやいや、町山さんの書いた脚本が酷かったから、俺が現場で直してやったんだよ!」みたいな言い分があるかもしれないし。

ただ、樋口監督自身もラジオや雑誌等のインタビューで「町山さんは原作のキャラクターや世界観を守ろうとしていた」などと話していることから、町山氏の発言内容は大筋では合っていると思われ、「たぶん悔しい気持ちがあるんじゃないかな?」という推測も間違ってはいないと思う。

ではなぜ、公平に他の人の意見も検証しないのか?というと、映画監督や出演者がテレビや雑誌でコメントする場合、”映画の宣伝”として喋るパターンが多いからだ。例えば、「この映画の見どころは…」とか、「撮影中に苦労したエピソードは…」みたいな感じで、あまり製作状況の裏側を詳しく話している場面は見かけない。

それに対して町山氏は、”映画の宣伝”というよりも「こういう映画ができてしまった経緯」を説明している点が異なっている。恐らく、あまりにも原作とかけ離れた内容ゆえに、「これは事前に説明しておかないと炎上するかもしれない」と考えたのだろう。

残念ながら、町山氏のこうした気遣いも虚しく大炎上してしまったわけだが(笑)、要は「映画を観る際に知っておいて欲しい情報」を発信していたわけだ(個人的には、この情報を知っていたとしても映画に対する評価は変わらないような気もするけど…)。

このような町山氏の発言を拾っていった結果、『進撃の巨人』制作当初に思い描いていた理想像が徐々に崩れていく様子を知ることが出来、「大勢の人の意見や思惑を1本の映画に集約させることは、やっぱり難しいんだなぁ」ということがあらためて分かった次第である。


樋口真嗣が悪いのか?
この記事を読んで「映画があんな風になったのは樋口真嗣が脚本を無視したせいだったのか!」と思った人が多いようだが、それもちょっと違う(別に樋口監督を擁護する気は全くないけれどw)。確かに、脚本に書いてある内容を現場で急に変更したり、存在しないエピソードを追加するなど、自由な撮影スタイルは事実のようだ。

しかし、それは他の多くの映画監督もやっている”普通のこと”で、樋口監督だけが責められる理由にはならない。日本でもハリウッドでも、一旦撮影に入ったら後は監督の独壇場であり、脚本を独自解釈して好き勝手に撮ってしまう人も結構いるらしいので。

当然、あまりにも脚本から逸脱しすぎると「私の書いたシナリオと全然違うじゃないか!」とブチ切れる脚本家も出てくるだろうし、最悪の場合は「スタッフクレジットから名前を外してくれ!」みたいな騒ぎに発展する場合も少なくないようだ。

具体例を挙げると、2009年に公開されたアマルフィ 女神の報酬では、原作者の真保裕一と監督の西谷弘が共同でシナリオを担当したが、完成した映画を観た真保裕一が「小説家仲間にこれが自分の脚本だとは思われたくない」と言い放ち、クレジットの表記を拒否したという。

まぁこれは極端な例で、普通は「俺の書いたあのシーンが変更されてるじゃん!」と怒って終わりだろう。だから町山氏も「出来上がった映画を観たら脚本と全然違っててビックリした」などとコメントするに止まっている。つまり不本意だけど、これぐらいはしょうがない」と受け入れているんじゃないだろうか?

それを「”しょうがない”で済ませるわけにはいかん!」と言うのであれば、後はもう自分で映画を撮るしか方法はない。すなわち、「自分で脚本を書いて自分で監督する」ということだ。もし、町山氏がそこまでやってくれるなら大いに期待したいと思う。ただ、世の中には”水野晴郎”という偉大な映画評論家がいるので全く油断はできないけど(笑)。


●そもそもどうしてこうなった?
今回、この記事を書いて分かったことは、「ダメな映画が出来上がっていくメカニズム」である(現時点では実写版『進撃の巨人』を”ダメ映画”と断定するのは早計かもしれないので、”批判の多い映画”と言い換えてもいい)。

よく「あの映画は脚本がダメだったな〜」みたいな言葉を耳にするが、この表現は正しくないような気がするんだよね。

もし仮に「ダメな脚本」が存在するとしても、普通、そんなものを使って映画を撮ろうなどと考えるだろうか?大金をかけて映画を撮るのに、わざわざダメな脚本を採用するバカはいないはずだ。つまり、脚本がダメなのではなく、映画を作る過程で”ダメになっていく”のである。

実写版『進撃の巨人』の場合、まず町山氏が原作の漫画を参照しながら脚本を書き上げた。それは「アニメ版の内容とそっくりだった」らしい(まだアニメ版が作られていない段階で)。その脚本を元に、原作者・監督・脚本家(渡辺雄介)・プロデューサーらが修正を加え、その他にスポンサーや役者の意見なども反映されているはずなので、かなりの紆余曲折があったことは想像に難くない。

さらに、クランクインしてからもエピソードの追加や削除が頻繁に行われていたことを考えると、撮影中も常に脚本は手を加え続けられていたことになる。それだけいじくり回せば、たとえ元の脚本が素晴らしいものだったとしても、不自然な箇所が出てくるのは当然だろう。

今回の映画でも、サンナギが巨人を投げ飛ばす場面を観た時に「ひでぇ脚本だな!町山さんはなんでこんなシーンを書いたんだろう?」と呆れ果てたのだが、実は全くそんなつもりで書いたわけじゃなかったということが分かり、同時に「過去に観た映画にもヘンテコなシーンがあったけど、もしかしてこんな感じでヘンになっちゃったのかも…」と想像したら悲しくなってきた。

だが、スタッフの中に「映画をダメにしてやれ」と考えている人間など一人もいないはずなのに、どうしてこうなってしまうのか?それは「各々のこだわるポイントが異なるから」だろう。プロデューサーは一人でも多くの観客を呼び込みたいと考え、監督は迫力ある映像表現を、脚本家は壮大な人間ドラマを、それぞれ描きたいと画策している。

しかし、全員の思惑が一つの映画の中で上手く融合できるとは限らない。特に今回は原作者が「漫画版とは違う内容にして欲しい」と要望したことも、混乱の一因になっているのではないだろうか?また、映画によっては役者が内容に口出しすることもあるから、ますますややこしい。

進撃の巨人』ではないが、他の映画で「主役がゴネたためにストーリーが大幅に変わった」という話を聞いたことがある(日本でも海外でもよくあるパターンらしい)。つまり映画作りというものは、発言権を持っている人がちょっと何かを言っただけで、簡単にダメになってしまう危険性を孕んでいるのだ。

特にマンガやアニメの実写版は「役者ありき」で企画を立てることが多いため、役者の都合や要望を最優先しているとか。人気マンガを実写化する場合も、まず先に有名な俳優のスケジュールを押さえてから、その人に合う原作を探すそうだ。「全然イメージと違うのに、どうしてこの人がキャスティングされたんだろう?」という残念な実写版は、こういう理由で生まれた可能性が高いのである。


●その表現、合ってる?
ブックマークのコメントより↓

町山智浩は実写版『進撃の巨人』をどのように評価しているのか? - 1年で365本ひたすら映画を観まくる日記

"だから途中で”牛”が出てくるとのこと(←どういうこと?)。"何気なく読んでてここに衝撃を受けた。それって世間的にはもう忘れられた光景なのか、あるいは単純に映画の出来が悪くて説明されても意味不明なのか

2015/08/25 20:40

これは完全に後者です(笑)。「福島で牛」といえばもちろん覚えているが、この映画では単に「夜道を移動していたら牛に遭遇する」という描写なのだ。それで”原発作業員”を表現するのはさすがに無理があるだろう。樋口監督の演出はいつもだいたいこんな感じで「その表現、合ってるの?」と疑問に思うシーンが非常に多い。

今回、リヴァイ兵長の代わりにシキシマというキャラが登場しており、この名前を考えたのが樋口監督らしい(ミカサの由来になった「戦艦三笠」は敷島型戦艦の四番艦なので、その1番艦から取ったそうだ)。まぁそれはいいんだけど、シキシマの描き方がどうにもこうにも…。

不自然に芝居がかった喋り方、潔癖症を表わす白いハンカチ(なぜそこだけリヴァイ兵長?)、意味あり気にリンゴをかじり、ミカサにもリンゴをかじらせるキモい仕草……いや、何かのメタファーなのは分かるんだが、その表現で本当に合ってるの!?

樋口監督はインタビューで、「初めて原作を読んだ時に面白いと感じたのは、巨人と立体機動の2つです。もともと怪獣映画が大好きで、これを実写で映像化されたものを観てみたい、できれば自分で作ってみたいと思いました」と答えている。

つまり、最初から興味は”巨人”と”立体機動”の2つしか無かったのだ。その言葉通り、巨人はもの凄くよく描けている。ちゃんと巨人が巨人らしく見えるし、迫力もすごい。しかし反面、人間が全く人間らしく見えない。まるでアニメのキャラがそのまま実写に出てきて喋っているような現実感の無さ。

はっきり言って、樋口監督は興味の対象が”特撮関係”の方にしか向いていない。だから、人間同士の会話や動作が全て記号的になっているのだ。もう、”役者に対する演出”は他の人にまかせて、樋口真嗣は”特技監督”に徹した方がいい映画になるんじゃないだろうか?

とにかく、「映像が凄い」ってのは良く分かった。監督の判断で脚本に無いシーンを撮影するのもかまわないし、思い付きでシナリオを変更するのもアリだろう。だが、せめて人間の演出はしっかりやって欲しい。大好きな怪獣だけじゃなくて、登場キャラクターにもきちんと愛情を注いでもらいたい。何卒よろしくお願いします。



さて、実写版『進撃の巨人』について色々書いてきたわけだが、ここまで前篇の批判が高まっていると、まだ観てない人は敬遠したくなるだろうし、既に前篇を観た人も「後篇は観ない!」と思っているかもしれない。しかし、町山氏はこのような状況を事前に予想し、それでも敢えてこの仕事を引き受けたという。以下、インタビューの発言より抜粋↓

この仕事を引き受けた時、周りからメチャクチャ言われたよ。「マンガの実写化なんて成功したためしがない」、「特にこれはリスキーすぎます」、「もし失敗したら映画評論家を辞めろって言われますよ」みたいにね。でもさ、映画評論家として食えなくなるぐらい、映画屋さんや漫画家になろうと人生賭けてる人たちのリスクに比べたら屁みたいなもんで、申し訳ないよ。

どんなことでも、やってみなきゃわからない。でも何もしなきゃ成功する確率はゼロだから。何も変わらないから。「失敗するからやめとけ」って言う人たちに聞きたいよ。じゃあ一生、安全地帯にいるのか?って。エレンは一生壁の中なんて耐えられない。できるのかどうかも確証はないけど、必死で壁を飛び越えようとする。それは諌山さん、川窪さん、樋口さんたちの姿なんだよ。

(「映画秘宝」2015年9月号より)

町山氏は批判を覚悟でこの仕事を引き受けた。つまり、「映画が面白いかどうか」の問題じゃなくて、”心意気”の問題であると。もはや映画評論家の発言とは思えないが(笑)、「面白いかどうか」を度外視して不可能なミッションに挑む”漢気(おとこぎ)”こそが崇高であり、樋口監督や諌山氏らと共に「壁を飛び越えよう!」と決めたのだろう。だったら最後まで見届けようじゃないか。町山氏が評論家生命を賭けたこの映画を!男には、たとえ地雷とわかっていても、踏みに行かなければならない時があるんだよ!(いや、できれば地雷は踏みたくないけどw)


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