ひたすら映画を観まくるブログ

映画やアニメについて書いています

本物の迫力!凄まじい戦車映画『フューリー』ネタバレ感想/評価


■あらすじ『1945年4月。ドイツ軍が最後の総力戦を繰り広げていたヨーロッパ戦線。戦況を優位に進める連合軍も、ドイツ軍の激しい反転攻勢に苦戦を強いられていた。そんな中、勇敢な3人の部下とともにシャーマン戦車“フューリー号”を駆る歴戦の猛者ウォーダディー(ブラッド・ピット)のもとに、戦闘経験ゼロの新兵ノーマンが配属されてくる。ろくに訓練も受けていないノーマンは、戦場の極限状況にただただ圧倒されるばかり。そんなノーマンを手荒く叱咤しながら、フューリーで敵陣深くへと進軍していくウォーダディーたち。やがて彼らの前に、ドイツ軍が誇る世界最強のティーガー戦車が立ちはだかった。果たして彼らは激戦をくぐり抜け、無事に生還できるのか…!?』



本作は、『エンド・オブ・ウォッチ』や『サボタージュ』などで生々しいアクションシーンを生み出し、観客のド肝を抜いたデヴィッド・エアー監督が初めて挑んだ戦争映画である。実話と見紛うほどのリアリズム溢れる描写は相変わらず凄まじく、画面全体に圧倒的な臨場感が漂っている。

中でも特筆すべきは、タイガー(ティーガー)、シャーマン、ヘッツァーシュビムワーゲン、Sd Kfz 251など、本物の戦車や特殊車両を使用した驚愕の戦闘シーンだろう。今までの戦争映画では実際の戦車を使うことが難しく、例えば『プライベート・ライアン』の場合はソ連T-34を改造してティーガーのように見せかけるなど、偽物でごまかすパターンがほとんどだった。

ところが、本作のティーガーはボービントン戦車博物館から貸し出された世界で唯一駆動可能な本物のティーガー戦車なのだ(映画に本物が登場したのは史上初らしい)。当然、劇中で初めて動くティーガー戦車を目の当たりにした戦車好きやミリオタたちは狂喜乱舞。

しかも、映画終盤では本物のティーガーと本物のシャーマンが壮絶な撃ち合いを演じているのだから凄すぎる。味方の戦車が次々と撃破されていく中、フューリーを指揮するブラピだけは最後まで諦めず必死に食らいついていくという、まさに手に汗握る白熱の攻防戦!戦争映画ファンとしてはこの場面だけでも感涙ものであり、一見の価値は十分にあるだろう。

戦車アニメガールズ&パンツァーで資料協力や監修を務めた軍事研究家の吉川和篤氏も、「戦車のディテールが本当に素晴らしい。こんな戦争映画は観たことが無い!」と大絶賛。「特に弾の使い分けをきちんと描いている場面に感心しました。対戦車砲や歩兵に対しては榴弾、戦車には徹甲弾やHEAT弾。あとは白リン弾も使ってますね。さらに砲手が撃つ手順もしっかり描かれていて、発射ペダルまでちゃんと見せているところが良かった」と大いに満足している様子。

ガールズ&パンツァー 1 (特装限定版) [Blu-ray]
バンダイビジュアル (2015-07-24)

戦車を使った武道“戦車道”が「大和撫子のたしなみとされている世界」で繰り広げられる学園コメディ!

しかし、その一方で気になる部分もあったようだ。「ドイツの対戦車砲が当たらな過ぎです(笑)。あれは腰を据えて狙ってますし、しかもドイツの光学照準はとても優秀なんです。あの距離ではまず外さないですよ。戦車が水平移動してるならともかく、まっすぐに向かって来てますからね。僕はシナリオ的に、あそこでまずシャーマンが1両やられるべきだったかなと思いました。そこで対戦車砲の意味が出て来ますから」とのこと。う〜ん、さすが軍事研究家、マニアックな指摘だなあ(^_^;)

1/35 WW.II ドイツ軍 重戦車 ティーガーI 第504重戦車大隊 ″131″ チュニジア
ドラゴン (2015-07-31)

ボービントン戦車博物館に展示されている車体を元にしたキット。

とは言え、本作の時代考証は専門家もうなるほど正確で、戦車だけにとどまらず、大道具や小道具、武器や役者が着ている衣装など、可能な限り当時実際に使用されていた実物を使っているそうだ。そのため、担当者は1940年製のものをわざわざベルリンまで探しに行ったらしい。ボタン1個、布1枚に至るまで全て本物なのだから恐れ入る。

おまけに、出演している俳優たちも、”過酷な戦場で生き抜く兵士”という雰囲気をリアルに表現するため、軍服を着たままシャワーも浴びずに何日も過ごしたり、わざとナイフで自分の顔に傷をつけたり、前歯を抜いたり、ありとあらゆる役作りに徹したそうだ。デヴィッド・エアー監督の指導も常軌を逸しており、なんと役者同士を本気で殴り合わせ、ギリギリの極限状態に追い込んでから撮影を開始したという(ディテールに狂気が宿ってる!)。

さて、このように「1940年代の戦場の再現」という意味では文句の付けようがないほど完璧な本作だが、内容に関してはいささか物足りない印象が残った。映画『フューリー』のストーリーを要約すると、「荒くれ男たちが集う戦車部隊に戦闘経験の全く無い若い兵士(ノーマン)が配属させられ、凄惨な戦場を目の当たりにしていくうちに次第に強くなっていく姿を描いた成長物語」だ。

途中、ノーマンは立ち寄った街でドイツ人の娘と恋に落ち、結ばれるものの、その直後に空襲を受けて娘は死んでしまう。その後、ティーガー戦車との激戦を経て、辿り着いた十字路でキャタピラが破損。その場から動けなくなったウォーダディーたちは、戦車に籠城して300人のドイツ軍を迎え撃つ…

という具合に、兵士たちの生き様をじっくり描いた人間ドラマは非常に見応えがあり、全体的には満足できるものの、ラストの籠城シーンだけはちょっと納得出来なかったんだよねえ。まず、地雷を踏んで戦車が走行不能になった時点で、作戦中止にすべきではないか?しかも1両しか残ってない状態では、敵を殲滅することなどまず不可能だろう。

さらに、”たった1両の動けない戦車”に対して、300人のドイツ軍が総攻撃を加えているのに、なかなかダメージを与えられないばかりか、主人公たちの銃撃を受けてバタバタと死にまくるのは、いくらなんでも不自然すぎる(自分から弾に当たりに行ってるように見えてしまうぞ)。

携帯式の対戦車兵器(パンツァーファウスト)をいくつも持っているのに、わざわざ戦車に近寄って行って撃ち殺されるとは、ドイツ軍どんだけ間抜けなんだよ!結局、かなりの時間をかけて何とかフューリーを撃破するものの、離れた場所からパンツァーファウストを2、3発撃ち込めば、もっと早い段階で勝負はついてたんじゃないだろうか?

要するに、「動けなくなった戦車で最後まで懸命に戦う主人公たち」というシチュエーションを成立させるためには、敢えてドイツ軍を間抜けに描写せざるを得なかった、ということなのだろう。これは、”娯楽映画”的には確かに正しい判断だと思う。しかし、全体的にリアリティ重視で作られている本作では、このシーンの違和感が一層際立ってしまったことは否めない。

あと、頓挫した戦車を前にウォーダディーが「ここは…俺の家だ…!」とカッコ良く呟くんだけど、肝心のウォーダディーのバックボーンがはっきりしないのでいまいち感情移入できず。なぜ彼は流暢にドイツ語を喋れるのか?なぜ異常にナチスを憎んでいるのか?ドイツ軍を嫌っているくせにドイツ製の銃を好んで使うなど、色々謎が多い人物なのだが、その理由は映画の中で明かされることはない。う〜む…

まあ、「登場人物の背景は想像してくれ」ってことなんだろうけど、もう少しウォーダディーの過去に言及する場面があっても良かったのではないだろうか?そうすればもっとキャラクターに共感できたのに…と思った次第である。

ちなみに、『エンド・オブ・ウォッチ』と『サボタージュ』と本作を観て思ったのは、デヴィッド・エアー監督って日常会話が好きなんだなあ」ってこと。普通、映画の中で登場人物が喋っている言葉には、ストーリーを進める上で重要なセリフとか、謎を解くための伏線とか、何らかの意味が含まれているものだが、デヴィッド・エアー監督の場合”本当の日常会話”になっているのだ。

例えば前作の『サボタージュ』では、張り込み中の捜査員二人が、「途中でオシッコしたくなったらどうする?」という話をし始め、一人が「俺はこのペットボトルにしてる。お前も使うか?」と言うと、「よせよ!お前の突っ込んだ穴に俺のモノを入れられるか!」と拒否。すると「へえ〜、じゃあレベッカはどうなる?w」「え?まさかお前…」みたいな、非常にくだらない会話を延々と続けるシーンがある。

まあ、面白いといえば面白いんだけど、必要ないといえば全然必要ないシーンなんだよね(この二人はストーリーに全く絡んで来ないので)。しかも『サボタージュ』は尺が長くなりすぎたため、プロデューサーから「70分カットしろ!」と言われていたのに、「なぜこのシーンを真っ先にカットしなかったのか?」と不思議で仕方がない。どうやらこの監督、よっぽど日常会話にこだわりがあるようだ。

そう思って『エンド・オブ・ウォッチ』を観ると、二人の警官がパトカーで移動中に下品な下ネタを、そして『フューリー』でも戦車を操縦しながら「チョコバーを渡せばあの女とヤレるぞ」とか、相変わらず下らない会話を繰り広げていることが分かる。どんなに映画の内容が違っても、必ず日常会話を入れるこだわりが凄い(笑)。

でも、良く考えたらこれは当たり前のことで、警察官だろうが戦車に乗ってる兵隊だろうが、年がら年中真面目な会話をしているはずがなく、時には不真面目な…というか、たとえ勤務中であっても下らない会話ぐらいするだろう。

普通、映画の中で登場人物が喋るセリフには”各々の役割”が与えられているから、あまり意味のないセリフは出て来ない。しかし、デヴィッド・エアー監督は敢えて日常会話を重ねることで、虚構と現実の境界線を曖昧にしようとしている。

そして同時に、登場人物それぞれの心情や性格を炙り出し、架空のキャラクターに揺ぎ無い説得力を与えているのだ。それこそが「フィクションなのに、まるでドキュメンタリーみたいな臨場感だ」と評される理由の一つなのかもしれない。

というわけで、色々気になる部分もなくはないが、CG全盛のこのご時世に「本物の戦車を動かしてリアルな戦争映画を作った」ことは間違いなく快挙であり、今後の戦争映画にも大きな影響を及ぼすことになるのだろう。そういう意味ではまさに必見の映画だと思う。



●人気記事一覧
これはひどい!苦情が殺到した日本語吹替え版映画ワースト10
まさに修羅場!『かぐや姫の物語』の壮絶な舞台裏をスタッフが激白!
日本映画のレベルが低くなったのはテレビ局のせい?
町山智浩が語る「宮崎アニメの衝撃の真実」
「映像化不可能」と言われている小説は本当に不可能なのか?


このブログについて(初めての方はこちらをどうぞ)
トップページへ