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宮部はなぜ特攻を決意したのか?最後の笑顔に隠された真実とは?『永遠の0』の疑問を徹底考察!

■あらすじ『司法試験に落ちて進路に迷う佐伯健太郎はある日、今の祖父とは血のつながりがなく、血縁上の祖父が別にいたことを知る。その実の祖父の名は、宮部久蔵。太平洋戦争で零戦パイロットとして戦い、終戦直前に特攻出撃により戦死していた。そこで宮部について調べ始めてみると、かつての戦友たちはみな口を揃えて宮部を”臆病者”と非難した。天才的な操縦技術を持ちながら、「生きて還ることに執着した腰抜けだ」と言う。にもかかわらず、なぜ宮部は特攻に志願したのか?やがて宮部の最期を知る人物に辿り着く健太郎だが、そこには驚くべき真相が…。百田尚樹のデビュー作にして一大ベストセラーとなった同名小説を「ALWAYS 三丁目の夕日」の山崎貴監督が映画化した感動の戦争ドラマ!』




現在、岡田准一さん主演の映画『永遠の0(ゼロ)』が猛烈な勢いで大ヒットしているようです。2014年最初の週末興行ランキングではなんと3週連続の首位を獲得。1月4日〜5日の成績は、観客動員41万4397人、興業収益5億3172万8400円。公開からの累計では、動員が258万9645人、興収で32億0287万2050円という凄まじい快進撃を記録中!

配給の東宝によれば、昨年の正月興行で奮闘した『レ・ミゼラブル』(興収58.8億円)よりも1週間以上早く30億円に達したらしい。最終的に興収50億円以上を売り上げるのは確実で、正月映画の第1位となるのはもはや間違いないでしょう。そんな『永遠の0』の感想をざっくり書いてみましたよ。

最初、上映時間が144分と聞いて「ちょっと長いかなあ」と思ってたんですが、実際に観てみたら全く長いとは感じませんでした。原作がかなりの長編なので、これを上手く劇場作品に落とし込むための”削りに削った144分”という印象でしたね。

かと言って展開が分からなくなるほど説明不足でもなく、逆にポイントとなる場面は十分な尺を取ってきっちり描かれるなど、人気小説を映画化した作品の中では、かなりバランス良く仕上がっている方だと思います。山崎貴監督の過去の作品履歴の中では「最高傑作」と言っていいんじゃないでしょうか。

内容は、現代パートから過去の時代を回想する「戦争回顧モノ」で、主人公の佐伯健太郎三浦春馬)が「自分の祖父:宮部久蔵は仲間達から”腰抜け”と言われるほど死ぬことを恐れていたのに、なぜ特攻で死んだのか?」と疑問を持ち、それを調べていくうちに長く封印されていた驚愕の真相が徐々に明らかになる…という”ミステリー仕立て”になっています。

色々な人から「宮部久蔵は帝国海軍一の臆病者だ!」と散々言われ、すっかり意気消沈していた主人公は、ある人から「確かに宮部さんは生きて家族のもとへ帰ることを誰よりも望んでいたが、決して臆病者ではなかった」と聞かされたことで、戦時中に何があったのかどうしても知りたくなりました。そこで、当時宮部久蔵と同じく海軍で働いていた人たちを捜し訪ね、詳しく状況を聞いて回るのです。

その過程で次々と明らかになっていく宮部久蔵の意外な人物像。果たして彼は本当に臆病者だったのか?そして、誰よりも生きることに執着していた男が、なぜ命懸けの特攻に志願したのか?謎に包まれていた壮絶な祖父の生涯を調べるうちに、戦時下の日本とそこに生きた人々の想いを知っていく主人公。現代の青年の視点を通すことで、若い世代へ自然に訴えかけようとする構成が分かりやすくて良かったです。

また、昨年は宮崎駿監督の引退作『風立ちぬ』が大ヒットしましたが、この映画は『風立ちぬ』と対を成しているとも言えるでしょう。『風立ちぬ』が「零戦の設計・開発から完成に至るまでの状況を描いたもの」だとすれば、『永遠の0』は「零戦が実戦に投入されてから終戦に至るまでの状況を描いたもの」という位置付けになっています。なので、本作には『風立ちぬ』で描かれることのなかった「零戦と敵機の激しいバトル」がしっかり再現されていました。

見どころの一つがまさにその戦闘シーンであり、山崎貴監督お得意のVFX技術を存分に駆使した”ド迫力の空中戦”が炸裂しています。しかも「これ本当にCGなの?」と驚くほどにリアルな映像にビックリ仰天!それもそのはず、本作の戦闘シーンは本物の空撮映像に零戦を合成して作られていたのですよ(山崎監督自身がヘリに乗り込んで20時間以上の素材を撮影したらしい)。どこまでも広がる青い空や流れる白い雲、眼下に映る海の映像等は全て実際の風景を使用しているのです。

他にも、全長260メートルにも及ぶ巨大空母:赤城の甲板の一部をオープンセットとして海のすぐ側に建設し、本物の海風を受け、本物の太陽光を浴びながら撮影を敢行。ミッドウェーの戦いで爆撃を受けるシーンも、実際に現場でセットを爆破し、海面の水柱や炎の光りなど、合成が難しい要素を見事に表現していました(しかも爆弾の落ちる位置や順番なども史実通りに再現しているのだからすごい!)。

さらに重要な役割を担う零戦も実物大のレプリカを作り、奄美大島など様々な現場に運び込んで、徹底的にリアルな映像を追求したそうです。最新のCG技術を使えば、画面に映る全ての映像を作り出すことも可能なのに、なぜ敢えて本物で撮影したのか?山崎監督曰く、「全部CGで作ってしまえば簡単だが、それでは臨場感が出ない。少しでも本物を入れることで、より一層のリアリティが生み出せる」とのこと(こだわりが凄いなあ)。

もちろん内容的にも素晴らしく、激動の時代に生きた人々の想いを見事に活写し、観る者の心を最後まで捉えて離しません。中でも、宮部の元教え子たちがそれぞれのエピソードを熱く語る場面は、井崎や景浦や大石らの宮部に対する絶対的なリスペクトが溢れ出し、同時に宮部久蔵という人物の「仲間や家族を思いやる愛情の深さ」が十二分に感じられ、とても印象的でした。

しかし、この映画はいくつかの点で疑問が残ります。そもそも佐伯健太郎三浦春馬)は「臆病者と呼ばれていた宮部がなぜ特攻を決意したのか?」という疑問を解き明かすために行動していたのに、その”最大の謎”が分からないまま終わっているわけですからモヤモヤしますよねぇ。原作小説にもこの辺の経緯は詳しく描かれていないため、読者や観客は自分の中で”答え”を見つけるしかありません。というわけで、一つずつ考察してみましたよ。

●なぜ宮部は大石と機体を交換したのか?
いよいよ特攻隊として出撃する当日、宮部は「自分が使用している零戦と大石(染谷将太)の機体を交換して欲しい」と申し出ます。宮部の機体の方が新型で高性能だったため、「なぜわざわざ古い戦闘機に乗るんですか?」と大石は不思議がるものの、結局宮部の要望を受け入れ、大石は宮部の零戦で出撃しました。

ところが、飛行中にその機体が不調を訴え、やむを得ず大石は戦線を離脱。特攻を免れ、奇跡的に生き延びることが出来たのです。その後、操縦席から宮部の家族の写真とメモ書きを発見。メモには「もし君が生き残ることができたら、そしてもし私の妻と子供が困っていたら、どうか助けてやって欲しい」との文字が…。

宮部は自分の機体の不調を事前に見抜き、”助かるかもしれない可能性”を教え子の大石に託したのです。それを知って感謝と申し訳ない気持ちで号泣する大石。でも一体なぜ?自分がその機体に乗っていれば生きて家族に会えたかもしれないのに、どうして宮部はその機会を大石に譲ったのでしょうか?

考えられる理由としては、宮部は過去に大石の助けによって命を救われたことがあり、その時の恩を返したかったのではないか、というのが一つ。そして大石はこの時重傷を負って病院に入院しますが、見舞いに来た宮部に「戦争が終わったら、人の役に立つ仕事がしたいです」と自分の夢を語っていました。

そんな大石を見て宮部は、「前途ある若者に日本の未来を託したい」と考えたのかもしれません。あるいは、日々多くの特攻隊員が死んでいく様子を見て「自分の教え子は皆死んでしまった。だから、せめて彼だけは生き延びて欲しい」と考えたのではないでしょうか。

●なぜ宮部は特攻による死を選んだのか?
宮部は、非常に腕のいいパイロットでありながらわざと危険な戦闘を避け続け、仲間から「海軍一の臆病者」と言われるぐらい、誰よりも生き残ることに執着していました。本作は「そんな彼がなぜ特攻を志願したのか」を解き明かそうとするストーリーなのですが、結局”最大の謎”が解明されることはありません。その”答え”は観た人それぞれの判断に委ねられているのです。

なので、ここから先は推測になりますが、もしかしたら宮部は良心の呵責に耐え切れなくなったのではないでしょうか?「必ず帰って来ます」と奥さんに約束したその言葉に嘘は無かったと思います。しかし新米パイロットを訓練する立場になってからは、少しずつ心境に変化が生じてきたのかもしれません。

毎日毎日、若い命が大空に散っていく光景を目の当たりにして、徐々に精神を苛まれ、ある日ついにその感情が爆発。「直掩機は特攻機を守るのが役目だ!たとえ自分が墜とされてもだ!なのに俺は彼らを見殺しにした…」「俺の命は彼らの犠牲の上にある」「彼らが死ぬことで、俺は生き延びているんだ…!」。宮部の教え子が「あの人は優しすぎたんです」と語っていたように、度重なる”仲間の死”に彼の優しすぎる心はもはや限界に達していたのでしょう。

そして長く苦しい葛藤の末に宮部が下した最後の決断、それが「特攻」だったのです。戦況が混迷を極め、米軍の攻撃が日に日に激しさを増していく中で、特攻の成功率はどんどん低下していました。優秀なパイロットが死に、未熟な若手が戦闘に駆り出されたことで、ただでさえ難しい特攻がますます困難なものとなり、敵の猛攻撃に阻まれて目標に辿り着くことすら出来ずに撃墜される有様。これではまさに”無駄死に”です。

そんな状況を見て、ついに宮部は「自分がやるしかない…」と決意したのかもしれません。彼ほどの操縦技術があれば、たった一機で敵の猛攻撃をかわしながら目標に体当たりすることも不可能ではないでしょう。虚しく散っていった教え子たちのためにも「せめて一矢を報いたい」、そういう思いがあったのかもしれません。

●最後の”笑顔”はどういう意味なのか?
零戦に乗り込んだ宮部は、神業的な操縦テクニックを駆使して米海軍の対空砲火をくぐり抜け、猛スピードで敵空母目がけて突っ込みます。それは米軍兵から「奴は悪魔か?」と恐れられるほどの凄まじい勢いでした。ところがその瞬間、宮部は”謎の微笑み”を浮かべるのです。これを観た観客の間では「なぜ宮部はあの時笑ったのか?」と議論が沸騰しました。

この”笑顔の意味”に関しては様々な解釈があるようで、「やったぞ!」という”歓喜の笑顔”。あるいは「これでようやく苦しみから解放されて楽になれる」という”安堵の微笑み”。または死に直面した人間が見せる”恐怖に引きつった笑い”など、色んな表情に見えるんですよね。しかも、解釈の仕方によっては伝えようとしているメッセージが180度変わってしまうのですよ。

例えば、”歓喜の笑顔”と解釈した人は、「宮部は敵を倒すことに満足感を覚えている。つまりこれは戦争を賛美する映画だ!けしからん!」と批判し、”安堵の微笑み”と解釈した人は、「最後に生きることを諦めたってことか。結局は自暴自棄になった弱い男の映画じゃないか」と落胆するなど、色々な意見が出ている模様。中でも否定的な理由の多くは、「宮部がニヤリと笑っているように見えるから嫌」というものでした。でも、本当に彼は”ニヤリ”と笑っていたのでしょうか?

実はこのシーン、原作に無い映画だけのオリジナルなんですが、脚本には「静かに澄みきり、微笑みすら浮かべている」と書かれていて、演じた岡田准一さんも「どういう表情か分からず悩んだ」そうです。そして山崎監督はこの場面について「宮部の人生最後の顔は、単純に一つの表情で終わらせたくなかった」「この顔を見てお客さんは劇場を後にするわけだから、ここに作品の全てを込めたかった」「泣く、笑う、怒る、悩む…色んな感情が入り混じって渾然一体となった表情を見せたかった」と語っています。

確かに、宮部の顔はうっすら笑っていますが、同時に泣いているようにも、怒っているようにも見えました。ではいったい、この時宮部は何を考えていたのでしょうか?まず「色んな感情が入り混じって」ということから推測すると、過去の出来事を思い返していたのではないかと考えられます。子供の頃の光景や奥さんに初めて出会った時のこと、可愛い娘や教え子たちのことなど、喜びや悲しみなど色んな感情が湧き上がっていた。だから複雑な表情になっていたと。つまり宮部は”走馬灯”を見ていたのではないでしょうか。

そしてもう一つの重要な要素が、現代パートで佐伯健太郎が見た”宮部の幻影”です。街を歩いていた健太郎の目の前に、いきなり零戦に乗った宮部が現れるという衝撃的なシーンで、普通の感覚ならここでこんな映像は入れないはずです(もちろん原作にもありません)。でも山崎監督は「宮部が孫に思いを託すシーンをどうしても作りたくて、敢えてムチャな演出をしている」と証言。

なぜ、そこまでこの映像を入れることにこだわったのでしょう?実はこの場面、「健太郎が宮部を見ている」という構図なんですが、逆に「宮部も健太郎を見ている」んですよね(はっきり視線を合わせて敬礼している)。つまり、敵艦に激突する瞬間、宮部の意識は時空を飛び越え、現代の日本を見ていたのではないでしょうか。

おそらく、魂だけが日本へ戻って来て自分の奥さんや娘がどうなったかを確認し、最後に孫の顔を見たのでしょう(奥さんに「たとえ死んでも戻ってくる」と約束したのはこういう意味だったのでは?)。そして家族や多くの日本人が幸せそうに暮らしている様子を見て納得したのではないかと。つまりこの時点で宮部には何も思い残すことが無くなったわけですね。だからこそ、彼は最期に笑って死ぬことが出来たのではないでしょうか?

以上、本作の疑問点を自分なりに考察してみたのですが、この物語は特攻に赴く宮部久蔵の”心境”をどのように解釈するかによって、観た後の印象が大きく変化する構成になっています。だから、人によっては「特攻を美化している!」とか「好戦的な映画だ!」など、作品の本質とは異なる結論に至ってしまう場合があるかもしれません。

しかし、脚本の「静かに澄みきり、微笑みすら浮かべている」という一文を見る限り、宮部が非常に穏やかな心境で最期を迎えたことは明らかで、少なくとも「戦争を賛美した映画ではない」ということだけは明白なのではないでしょうか。

原作の小説では宮部が特攻した後の状況も詳しく描かれ、どんな結末になったのかを見せていますが、映画版では敢えてその手前で幕を引きました。それは、山崎監督がこの作品の結論を観た人の感性に委ねているからでしょう。つまり映画を観たそれぞれの人に”答え”を考えて欲しいと願っているのです。

果たして、宮部や井崎や景浦や大石は現代の我々に何を伝えたかったのでしょうか?宮部の最期の表情を「ニヤリと笑った不敵な笑顔」と見るか、それとも「静かに澄みきった微笑み」と見るか。皆さんはどんなメッセージを受け取りましたか?


永遠の0

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