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あの名作はどうやって生まれたのか?『風の谷のナウシカ』衝撃の制作秘話!


■あらすじ『かつて人類は自然を征服し繁栄を極めたが、「火の7日間」と呼ばれる大戦争で産業文明は壊滅。それからおよそ千年、わずかに生き残った人類は、巨大な蟲類が棲み有毒な瘴気を発する広大な森”腐海”に征服されようとしていた。そんな腐海のほとりに、海からの風によって瘴気から守られている小国「風の谷」があった。その族長ジルの娘ナウシカは、巨大な蟲・王蟲(オーム)と心をかよわせる不思議な親和力を持っていた。ある夜、風の谷に巨大な輸送機が墜落し、巨大な血管のかたまりのようなものが発見される。それは、「火の7日間」で世界を焼き尽くしたという超兵器・“巨神兵”だった。ペジテ市の地下から掘り出され、それを奪い取った世界統一の野望を持つトルメキア王国が、輸送中墜落したのである。墜落を知ったトルメキアの皇女クシャナは、大編隊を風の谷に送り込み、ジルを殺しナウシカを人質として連れ去った。だがトルメキアの船はペジテのアスベルに襲われ、墜落してしまう。ナウシカ腐海に落ちたアスベルを救出し、そこで腐海の“秘密”を知ってしまった。果たして残された人類の運命は…!巨匠:宮崎駿の同名マンガを自ら映画化した、長編ファンタジー・アニメの金字塔!』



本日、金曜ロードSHOWで宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』が放映されます(何度目だw)。『風の谷のナウシカ』といえばもはや説明不要の傑作アニメーションですが、意外なことに公開前はあまり期待されていませんでした。今でこそ巨匠と呼ばれ大ヒット作を連発している宮崎監督も、当時は『ルパン三世 カリオストロの城』が興行的に大失敗しており、「もう宮崎駿には映画を作らせるな!」と映画会社から半ば見放されていたからです。

そのため、宮崎監督は1979年から82年頃までアニメの仕事を完全に干されることになってしまいました。後にこの時期の心境を「”俺に映画を作らせろ!俺はこんなに映画を作りたいんだ!”と思っているのにどこからも依頼は来ないし、出す企画出す企画ことごとく断られていました。あの3年間、そういうことがずっと続いて本当に辛かった」と語っているほどですから、よっぽど苦労したんでしょうねえ。

そんな不遇の時代に救いの手を差し伸べたのが、後にスタジオジブリの社長となる鈴木敏夫でした。鈴木さんは宮崎監督と協力し、いくつかの企画を作って映画会社に持ち込みましたが、「原作付きじゃないから売れないよ」とあっさりボツにされてしまいます。頭に来た二人は、「じゃあ先に原作を描いてしまおう!」と決意。こうして「月刊アニメージュ」誌上にて『ナウシカ』の漫画連載がスタートすることになりました。その後漫画版『ナウシカ』は着実に人気を集め、ついに劇場映画化決定!ようやく念願の映画が制作できることになったのです。すると宮崎監督から一つの条件が出されました。

高畑勲にプロデューサーをやってもらいたい」

高畑勲監督は、東映動画時代から宮崎監督と共にアニメを作り続けてきた盟友です。『アルプスの少女ハイジ』や『母を訪ねて三千里』などで一緒に仕事をした後は、『火垂るの墓』を作って『となりのトトロ』と一緒に上映するなど、長年に渡って宮崎さんと苦楽を共にしてきた大事な仲間。なので、「高畑さんにプロデューサーをやって欲しい」と聞いた鈴木さんは「なるほど、それはいい!」と考え、すぐに高畑監督のもとを訪ねました。

ところが、鈴木氏が高畑監督にそのことを伝えると、「僕はプロデューサーに向いていないから」という理由で断られてしまいます。その後粘り強く1ヵ月以上も毎日説得を続けたものの、どうしても首を縦に振ってくれません。とうとう諦めて「宮崎さん、他の人にプロデューサーをやってもらいませんか?」と相談しました。

すると宮崎監督はしばらく黙ったままうつむき、やがて「鈴木さん、お酒を飲みに行こう」と言い出したのです。飲み屋に入ったら、宮崎監督はいきなり日本酒をガブ飲みし始めるではありませんか。今までそんな姿を見たことが無かった鈴木氏はびっくり仰天!驚く鈴木氏に構わず、一人で浴びるように酒を飲みまくる宮崎監督(鈴木さんは酒を一滴も飲めないらしい)。

やがてベロベロに酔っ払った宮崎監督はついに大声で泣き出してしまいました。泣きながら、「俺は15年間、高畑勲に自分の全青春を捧げてきた。それなのに……!」と切々と胸の内を訴えたそうです。鈴木氏は掛ける言葉も無く、黙って監督の訴えを聞き続けるしかありませんでした。

そして、宮崎監督がどのような思いでプロデューサーを依頼したのかを知った鈴木氏は、飲み屋を出るとその足で高畑監督の家まで押し掛け、「高畑さん、やっぱりプロデューサーをやってください!」と再度お願いしたのです。それでも、「いや、この前話したように僕には向いてないから…」と断ろうとする高畑勲。「やってくれ」「やらない」の押し問答の挙句、ついに鈴木氏がブチ切れました。

「宮崎さんがやって欲しいと言っているんですよ!宮崎さんは高畑さんの大事な友達でしょう?友達がこんなに困っているのに、あなたは力を貸さないんですかッ!」

そのあまりの剣幕にビビッた高畑さんはとうとう 「…… わかりました。やります」と承諾。こうして、1983年4月にようやく『風の谷のナウシカ』の制作がスタートすることになったのです。後のインタビューで鈴木さんは、「僕が高畑さんに向かって怒鳴ったのは、生涯でただ一度だけ。高畑さんもあんまり人に怒鳴られたことはないんでしょう。これが功を奏してプロデューサーをやってくれることになったんです」と語っていました(中央公論新社『風に吹かれて』より)。

しかし、その後も問題は山積みでした。まず第一の問題は「どこのアニメスタジオで作るのか?」という点です。今なら「そんなのジブリに決まってるじゃん!」という話でしょうけど、スタジオジブリは1985年6月15日、『天空の城ラピュタ』を作る時に設立されたので、この時はまだジブリは存在していなかったのですよ(なので『ナウシカ』は厳密に言うと”ジブリ作品”ではない)。

宮崎監督は当初、日本アニメーションか古巣のテレコムで制作しようと両社に打診していましたが、いずれも「現在、別作品に取り組んでいるためスタッフに余裕が無い」と断られてしまいます。東京ムービー東映動画など、他のスタジオも「宮崎さんならいい作品を作ることは分かっているが、あまりにも要求が厳しすぎてスタッフも会社もボロボロになるから…」との返事で、いきなり窮地に立たされた宮崎駿

その危機を救ったのがプロデューサーに就任したばかりの高畑勲でした。高畑監督にとって『ナウシカ』が初めてのプロデューサー体験であったため、何もかもが手探り状態です。しかし、高畑氏は全てを一から勉強し、これまでの慣習や常識にとらわれない独特の方法で的確に制作体制を整えていきました。

まず、宮崎監督に一番負担を掛けない方法を考え、それを実行するには何が必要なのかを検討。次に拠点とスタッフを確保し、予算を確定させました(拠点は当時海外作品を多く手掛けていたトップクラフトに依頼、後にスタジオジブリの制作母体となる)。更に原画1カットいくらかかるか等、全ての作業を数値化し、それを積み上げ方式で算出して各部門毎に基準額を設定。このように、非常に合理的かつ現実的な方法で次々と問題点をクリアーしていったのです。

しかし、制作に突入してからも相変わらずトラブルは続出しました。元々、『風の谷のナウシカ』はマンガとして発表された作品であるため、それを一旦バラバラに解体し、映画として相応しい表現に改変し直す作業が困難を極めたのです。後日宮崎監督は、この時の苦労を以下のように語っていました。

「他人の原作なら躊躇無く変更できるんですが、さっきまで自分の中にあったものだから簡単には客観視できない。原作に描いていなくても、一つ一つのコマの裏にはそれなりに苦悩や思い入れがあるわけです。モチーフは原作にあるものを使って、でもその意味を変えながらシーンを並び替え、更に全てが映画の尺に収まるように風呂敷を閉じなければならないのですから大変でした」(宮崎駿監督談)


このような宮崎監督の負担を軽減するために、当初『ナウシカ』の脚本は伊藤和典が担当することになっていました。伊藤和典といえば、『うる星やつら』シリーズや『機動警察パトレイバー』など、押井守監督と組んで数々の優れた作品を提供している脚本家です(実写作品としては『平成ガメラシリーズ』などにも参加)。ところが、伊藤氏が原作からシナリオを試算した結果、なんと3時間を越える超大作になることが判明!伊藤氏曰く、「どう考えても110分に詰め込める内容とは思えなかった」とのこと。

しかも、伊藤氏の脚本執筆が遅れたため、宮崎監督は先行して絵コンテ作業を進めなければなりませんでした。結局、伊藤和典は膨大なストーリーを110分以内に収めることが出来ず、脚本担当を辞退。宮崎監督はストーリーの結末が未定のまま映画制作に突入するハメになってしまったのです。

さて、数々の困難をくぐり抜けてようやく作画作業に突入した『風の谷のナウシカ』ですが、またしても困った問題が発生しました。それが「作画の乱れ」です。基本的にアニメーションは大勢の人間が集まって一つの作品を作り上げるため、個々の絵柄を統一する「修正作業」が必要不可欠です。通常であれば、普段一緒に仕事をしている仲間の絵のクセなどは分かっているので、修正にそれほど時間は掛かりません。また、人数が少なければ効率良く作業することが可能なので、作画も統一しやすいのです。

しかし、『風の谷のナウシカ』の制作スタッフは「トップクラフト社内組」、「OH!プロダクション」、「フリーのアニメーター」という変則的な布陣で構成されました。アニメーターの中核を成す原画マンはクレジットでは19名となっていますが、実際は30名以上関わっていたと言われています。

ここまでスタッフが増えた理由は、ほとんどが初めて宮崎監督と組んだアニメーターばかりで、宮崎式の緻密なレイアウト・作画チェックシステムに戸惑い、作業が遅れたためでした。人数が増えれば当然個性も分散し、作画の統一感は失われてしまいます。宮崎監督は、早朝から深夜までの超ハードワークで何とかこれを乗り切ろうと奮闘しました。

しかし、それでも宮崎監督の後続作品と比較するとキャラクターの統一感は乏しく、ナウシカの髪の量感やテトの大きさ、アスベルの表情など、あらゆる要素がシーン毎にバラバラで荒削りの感は否めません。また、作画の負担を少しでも軽減するため、ほとんどのモブシーンを「止め絵」にするなど、近年の宮崎アニメでは絶対有り得ないような”多数の手抜き”が見られるところも『ナウシカ』の欠点と言えるでしょう(ただしアニメーターたちからは、「こんなに上手く手抜きが出来るなんて、やっぱり宮崎さんは天才だ!」と絶賛されていたらしい)。

このように、作画的には少々残念な仕上がりとなっている『風の谷のナウシカ』ですが、そんな中でも異彩を放っていたのが、当時スタジオNo.1に所属していた人気アニメーター:金田伊功です(ちなみに「かなだよしのり」と読む)。金田さんは、ワイドレンズのように歪んだパースや幾何学模様の置き換えみたいな爆発パターン、キャラクターに独特のポーズをとらせるダイナミックなアクション等で一世を風靡したカリスマアニメーターです。宮崎監督も早くから彼の描くアニメーションに注目し、「絵と動きに生理的な快感ともいうべき要素を持つ稀有なアニメーター」と熱烈なラブコールを送っていました。

そんな金田さんは、当時高畑さんの自宅の近所に住んでいたらしく、「これはラッキーだ!」と喜んだ鈴木さんが高畑さんを連れて「ぜひ『ナウシカ』の制作を手伝ってください」と説得に行ったそうです。すると、実は金田さんも宮崎・高畑監督のファンで、アニメーターになって初めて関わった仕事が『パンダ・コパンダ』だったことなどが判明。すぐに『ナウシカ』のスタッフになることが決まりました。

こうして『風の谷のナウシカ』の作画スタッフに加わった金田伊功は、ペジテ巨船の墜落、アスベルの奇襲とバカガラスの墜落など、派手な爆発やアクションシーンを中心に100カット以上を担当し、映像のクオリティアップに大きく貢献しています。

しかし、俗に「金田パース」と称される特徴的な作画のクセは直らなかったようで、金田さんの描いたカットだけが妙に浮いてしまい、他のシーンとのバランスが取れていません。一緒に仕事をした庵野秀明(『新世紀エヴァンゲリオン』の監督)も「金田さんの描いたカットは一目でわかる。宮崎監督も修正し切れていない」と述べています(結果として全体的な統一感はますます不足することに…トホホ)。

そんな庵野秀明さんは、当時大阪から上京してきたばかりの新人アニメーターでした。なので、普通なら動画から始めるところを、宮崎監督はいきなり原画を描かせるというまさかの大抜擢!当時はトップクラフトの社内スタッフが少なく、ほとんど外注に依存していたため深刻なアニメーター不足だったそうです。

おまけに、クライマックスの巨神兵の作画が難し過ぎて誰もやる人がおらず、宮崎監督も困り果てていた時でした。そんな事情もあり、面接を受けたら即原画スタッフとして採用され本人も相当びっくりしたらしい。

庵野秀明曰く、「まあ、宮崎さんにしてみれば、”鴨がネギ背負ってやってきた”みたいな感じだったんじゃないでしょうか(笑)」との事。こうしてめでたく『風の谷のナウシカ』のスタッフとして採用された庵野さんでしたが、現場では色々と苦労も多かったようです。実は、庵野さんはメカやエフェクト専門のアニメーターだったため、キャラクターが全く描けなかったのですよ。

宮崎監督もまさか、メカが描けて人物がまるでダメというアニメーターがホントにいるとは思わなかったらしく、最初はまとめてキャラも描かせていたようですが、何度修正してもうまく描けない状況に段々イライラし始め、とうとう「もういい!あとは俺が描く!」と大激怒。結局、巨神兵や戦車や爆発などは全部庵野さんが描いて、キャラだけは宮崎監督が第二原画で描き直すという、非常に贅沢なコラボレーションが実現してしまいました(笑)。

ちなみに、庵野さんと宮崎監督は『ナウシカ』を作った後とても仲良くなり、庵野さんが結婚する時には宮崎監督が仲人を務めたり、二人で長期の旅行に出かけるなど、今では完全に”師弟関係”が出来上がっているようです。そしてとうとう、宮崎監督は自身最後の作品『風立ちぬ』の主役に庵野さんを大抜擢!もはや”親子以上の親密ぶり”と言っても過言ではないでしょう(現在、「『風の谷のナウシカ』の続編を庵野監督が作るかもしれない」という噂が流れており、そちらの動向も気になるところです)。

宮崎駿と庵野秀明 (ロマンアルバム アニメージュスペシャル)
さて、『風の谷のナウシカ』の制作もいよいよ終盤に差し掛かってきた頃、どうしても解決しておかねばならない重要な問題が立ちふさがりました。それは「ラストシーンをどうするか」という事です。もともと『ナウシカ』は原作が完結していなかったため、ラストがどうなるか宮崎監督自身にも分かっていませんでした。

本来ならば、「映画用のストーリー」をきっちり決めてから映画を作るという段取りになるはずなのに、スケジュールに全く余裕がなかったため、仕方なく”見切り発車的”に作業がスタート。いざラストシーンを描く段階になって「さあ、どうしよう?」ということになってしまったのです。

宮崎監督は最初、「王蟲が突進してくる前にナウシカが降り立つ。ここでエンドマーク」という絵コンテを描いていました。しかし、その絵コンテを見た鈴木敏夫高畑勲は「これはちょっといかがなものか?」と暫し沈黙。そこで二人で喫茶店に入り、相談することになりました。

高畑監督の「鈴木さん、どう思う?」という問い掛けに対し、「う〜ん、終わり方としてはちょっとあっけないですねえ」と答える鈴木氏。高畑監督としては、娯楽映画なのにあまりにもカタルシスが無い、もっとサービスしてもいいんじゃないかと考えたのです。その後二人で延々8時間も喫茶店に居座り続け、ラストシーンを3パターン考え出しました。

A案:「王蟲が突進してきて、その前にナウシカが降り立つ。そこでいきなりエンド」
B案:「王蟲が突進してきてナウシカが吹き飛ばされる。そのままナウシカは死亡」
C案:「ナウシカは吹き飛ばされるが、その後生き返る」

「鈴木さん、この3つの中でどれがいいでしょう?」、「そりゃ死んで甦ったらいいですね」、「じゃあ、C案で宮崎さんを説得しますか」というわけで、そのまま二人で宮崎監督の所へ。

しかしてっきり反対されるかと思いきや、公開日が間近に迫っていた時期だったので宮崎監督もテンパっていたらしく、二人の提案を聞いた瞬間、「ハイわかりました、それでやります」とあっさりOKが出てしまいました。「大事なラストシーンなのに、こんなに簡単に決めちゃっていいのか?」と鈴木氏は拍子抜けしましたが、とにかくこうして劇場版『ナウシカ』の結末は決定したのです(後日、宮崎監督は「どうしてもっといい結末を思い付けなかったのか…。あのラストシーンは心残りだ」と後悔していたらしい)。

さて、ようやく物語のラストが決まったものの、相変わらず作業は遅々として進まず、さすがの宮崎監督も焦り出しました。幸い拠点となったトップクラフトには機材と部署は揃っていましたが、いかんせん人材が全然足りません。そこで鈴木さんは月刊アニメージュに「アニメーター急募!」の広告を掲載。一方、宮崎監督は率先して早朝出勤・深夜残業を連日こなし、スタッフにも作品の質的向上に全てを捧げ尽くす労働を要求しました。

それでもスケジュールはどんどん遅れていき、12月に入ってからは全スタッフが休日返上。12月31日も深夜まで作業は続き、休日はわずかに元旦のみ。宮崎監督も自ら原画・レイアウトを大量に描きまくり、朝の9時から夜中の3時頃までわき目も振らずに働き続けました。

しかし、そんな宮崎監督の頑張りもとうとう限界に達し、「このままじゃあ、絶対公開日までに間に合わないッ!」と高畑・鈴木両氏に訴えたのです。急遽開かれた緊急ミーティングに、鈴木さんや大勢のスタッフと共に参加する高畑さん。進行に責任を持つのはプロデューサーであり、宮崎監督としては当然、高畑さんが何らかの打開策を提案してくれるものと思っていたのでしょう。ところが、そんな高畑プロデューサーの口から想像を絶する衝撃の発言が!

「間に合わないものは仕方がない」

これには、宮崎監督はもちろんスタッフ一同びっくり仰天!あまりにも堂々と言い放つその姿に、同席していた鈴木さんも茫然自失で声すら出せません。実は、高畑氏には元々こういうところがあり、『火垂るの墓』を作っていた時、スケジュールよりも作品の完成度の方を優先させたため、公開日までに映画が間に合わないというスタジオジブリ創設以来の大事件が勃発したのです(この事件以降、間に合わない時は公開日を延ばすようになったらしい)。すなわち、高畑監督にとっては「期日までに仕上げる」ことよりも「映画の質を落とさない」ことの方が重要だったのです(「自分はプロデューサーに向いてない」ってこういうことだったのかw)。

しかし、宮崎監督は全く逆で、何が何でも締め切りに間に合わせようと考えるタイプでした。高畑氏の発言でしばらく気まずい沈黙が続いた後、「プロデューサーがこう言っているんだから、これ以上は何を言ってもしようがない」と腹をくくった宮崎監督。

この後、必死で徹夜作業を続け、作画が面倒な場面はカットしまくり、更には中割りの枚数を減らしたりモブシーンを”止め絵”にするなどの徹底した省エネ制作を続けたのです。当初の絵コンテに描かれていた「巨神兵王蟲の激しい戦闘シーン」も、「この場面を入れると公開日に間に合わない」と判断し、断腸の思いで全てをカットしてしまいました。

更に後半、ユパがトルメキア兵と闘うシーンも、本来はもっと複雑なアクションを予定していたようですが、「時間が無い!」の一言でばっさりカット。ユパに斬りかかった兵士たちを仕留める瞬間は黒バックに閃光のみというシンプルな描写に変更され、肝心な場面は一切描かれないまま。

後日、このシーンを見た庵野秀明から「ここだけいきなり石川五ヱ門みたいになってる(笑)」とバカにされたらしい。しかし、このような涙ぐましい努力の結果、作業効率が徐々にアップし、奇跡的にスケジュールの遅れを取り戻すことができたのです。

さて、こうして2月中頃にようやく作画作業が終了したものの、まだ大量の彩色が残っていました。そこで彩色の担当者だけでなく、原画・動画スタッフ総動員で突貫作業に突入!24時間フル稼働でひたすら色を塗りまくりましたが、まだまだ全然間に合いません。「誰か手の空いている人間はいないか!」と知り合いの外注スタッフに片っ端から声を掛けまくる鈴木敏夫。仕上げの女性は3日も家に帰れず、着の身着のままで作業に没頭。

ついに高畑監督の奥さん(以前アニメスタジオで働いていたので)や、全然関係無いアニメージュの編集部員まで駆り出されるという凄まじい状況に!挙句の果てには仕上げの音入れ作業も、普通なら3カ月程度かかるのに、残された時間があまりにも少なかったせいで、なんとたったの1週間で作るハメになってしまいました(メチャクチャだw)。こうした驚異的な追い上げのおかげで、ようやく映画は完成。3月11日の公開日にギリギリで間に合ったのです。

公開後、『風の谷のナウシカ』は大ヒットを記録し、多くのファンから絶賛されました。しかし、宮崎監督自身はその完成度に納得していなかったらしく、”65点”という辛口の自己採点を下しています。その理由として、「映画の正当な製作手順を全てぶっ飛ばして作りましたが、それでもテーマを掴み切れていない。あと半年時間をもらっても68点までしかいかなかったでしょう」と説明(なかなか自分に厳しいですな〜)。

ところが、そんな宮崎監督よりも更に厳しい採点を下したのが高畑プロデューサーでした。「宮崎さんはただの演出家ではなく作家なのだから、もっと新しい地平に進んで欲しかった。”未来から現代を照らし返す”という部分においても期待はずれで残念」と述べ、なんと”30点”という非常に低い点数をつけたのです。

しかもその点数を『ナウシカ』の関連書籍にインタビューとして掲載してしまったものだから、宮崎監督は大激怒!「こんなくだらない本を作ってどういうつもりだッ!」と鈴木敏夫の目の前でその本を引き裂くという大変な事態に!それを見た鈴木さんは「いったいどこからそんな力が出るんだろう?」と呆気に取られるしかありませんでしたが、この時の悔しい思いが10年後のもののけ姫で決着することになるんですね。



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