ひたすら映画を観まくるブログ

映画やアニメについて書いています

『紅の豚』のその後、ラストシーンに映ったものは…


■あらすじ『賞金稼ぎを生業とする飛行艇乗りポルコは、空賊マンマユート団に襲われた女学校の生徒達を助け、その夜、幼なじみのジーナが経営するホテルへ出かけた。そこでカーチスというアメリカ人と出会うが、数日後、飛行艇の整備のためにミラノに向かって飛んでいたポルコは途中でカーチスに遭遇し、撃墜されてしまう。大破した愛機とともにミラノへ向かったポルコは、馴染みのピッコロ社に修理を依頼。人手不足のピッコロ社で修理・再設計を担当したのは、ピッコロの孫で17歳の少女フィオだった』



本日、金曜ロードショーで『紅の豚』が放送されます。『風立ちぬ』はゼロ戦の開発にまつわる物語ですが、飛行機好きの宮崎監督が作り上げたもう一つの飛行機映画が『紅の豚』なのです。

魔女の宅急便』の後に制作され、『もののけ姫』の前に公開されたこの作品は、「宮崎監督の趣味が爆発した快作」として多くのファンに支持されました。しかし、映画の制作途中で思わぬ出来事が発生したため、当初の予定とは大きく異なる内容へと変化していったそうです。

というわけで、本日は『紅の豚』の制作裏話や宮崎監督自身のインタビューなど、色んなトリビアを書いてみようと思います。


●『紅の豚』制作のきっかけ
1989年、宮崎監督は『魔女の宅急便』の大ヒットにより、かつてない興行的期待を背負わされていました。それまでの『天空の城ラピュタ』や『となりのトトロ』が興行的に不調だったため、余計に周囲の期待が高まっていたのです。

そこで次回作の『おもひでぽろぽろ』(高畑勲監督)では、宮崎監督が自らプロデューサーとなって作品に関わり、さらにフリーのアニメーターをスタジオジブリが初めて社員として雇用する等、万全の態勢を整えました。

しかし、多くの社員を維持していくためには、絶え間なく映画を作り続けなければなりません。このため、宮崎監督は『おもひでぽろぽろ』をプロデュースしながら、自分の次回作を同時進行で制作するはめになってしまったのです。

ただし、長編アニメーション映画は1本作るだけでも凄まじいエネルギーを消費する重労働で、しかも宮崎監督は『ナウシカ』『ラピュタ』『トトロ』『魔女宅』と4本も連続して作ってきたため、心身ともに疲弊し切っていました。

「映画は作らなければならないが、長編はキツい…」と考えた宮崎監督は、模型雑誌に連載中の『飛行艇時代』という漫画をベースに、「15分程度の短編映画を作ろう」と思い付きます。

早速、ジブリ鈴木敏夫プロデューサーに相談したところ、「じゃあ日本航空JAL)にお願いしてみますか」と提案。こうして『紅の豚』は、徳間書店日本航空日本テレビの三社提供で予算は2億円という「30分のショートムービー」として制作がスタートすることになりました。

その後1990年2月、宮崎さんは『紅の豚』の企画書を書き上げます。ところが、当時スタジオジブリでは『おもひでぽろぽろ』に総力を上げて取り組んでおり、宮崎監督もプロデューサー業務で多忙を極めていました。

そんな状況の中、『おもひでぽろぽろ』の制作が遅れに遅れたため、『紅の豚』は一時ストップ。結局、企画の立ち上げから1年以上経過して、ようやく再スタートすることになったのです。

90年9月、宮崎監督はイタリアへロケハンに出発。メンバーは鈴木敏夫プロデューサーと徳間書店側の製作委員会、そしてなぜか『攻殻機動隊』の押井守監督が同行していました。目的地はテベレ川流域の山岳都市で、最後にローマを訪ねるというもの。

しかし、完成した映画には山岳都市は登場せず、ホテル・アドリアーノの設定の一部に影響が見られる程度です。結局、「宮崎監督が行きたかっただけ」ということが判明したわけですが(笑)、現地の雰囲気を直接体験できたことは大きな成果となり、日本へ帰国してから早速ストーリー原案を執筆。

91年に入り、宮崎監督は絵コンテ作業に突入、7月から作画、さらに8月からは背景の作業がスタートし、いよいよ本格的に制作が開始されました。この時、宮崎監督自身の提案により、作画監督美術監督などがほぼ若い女性中心のスタッフ編成になったのです(未経験者に仕事を覚えさせたいという思いがあったらしい)。

ところが、その頃またもや事件が起きました。ユーゴスラビア内戦、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発したのです。映画の舞台はアドリア海ですが、実際はユーゴスラビア多島海をモデルとしていました。宮崎監督は、「いくらフィクションとはいえ、戦争の最中にある地域をモデルに娯楽映画なんかを作って良いものか?」と葛藤します。

そして散々悩んだ結果、当初予定していた「単純明快な漫画映画」という路線は崩れ、荒唐無稽な設定と重厚なリアリズムの両方を抱え込んだ複雑な方向へと大きくシフトすることに。

それに伴い、30分で計画していたシナリオは45分、60分とみるみる膨れ上がり、やがて90分でも収まらない長尺となってしまいました。そして、ついに鈴木プロデューサーは機内上映だけでなく、一般映画として劇場公開することを決意したのです。

●宮崎監督、予告編に激怒
そうこうしているうちに、いよいよ映画の製作発表記者会見が行われることになりました。当日は『紅の豚』の予告編を流す予定だったものの、映画の作業で忙しい宮崎さんにそんなものを作っている余裕はありません。

そこで鈴木さんがプロモーション用の映像を作ることになったのですが、記者会見場でプロモーション・フィルムを初めて観た宮崎監督は大激怒!いきなりマイクを取り上げ「僕はこんな好戦的な映画を作った覚えはない。これは鈴木プロデューサーが作ったもので、僕が作ったものではありません!」と罵倒し始めたのです。

鈴木さんは、完成済みの作画の中から戦闘シーンをいくつかピックアップし、空中戦の映像を強調したスピード感溢れる予告編を作っていました。しかし宮崎監督の目には「過激な描写ばかりが前面に出すぎており、自分の意図とは違う方向にイメージがねじ曲げられている」と映ったのです。

さらに会見終了後も宮崎さんの怒りは収まらず、スタジオジブリのスタッフを集めてこのフィルムを見せました。すると全員肯定的な意見だったため、益々怒りに火が付いた宮崎監督。

とうとう「僕には、鈴木さんが作った予告編は分からない。僕はこんな映画を作っているつもりはない。でも、皆がそれをいいと言っている。だったら、後は鈴木さんが作るべきだ!」と、冗談でなく真顔で言い出しました。それを聞いた鈴木さんは大慌て。「申し訳ありませんでしたッ!」と平謝りしたそうです。

このような紆余曲折を経てようやく完成した『紅の豚』は、1992年7月に当時邦画としては最大規模の206館で全国公開されました。劇場では初日から長蛇の列ができ、観客動員数305万人、興行収入54億円という異例の大ヒットを記録。『魔女の宅急便』を抜き去り、日本アニメーション映画史上の歴代トップに輝いたのです。

●宮崎監督、自作を語る
しかし宮崎駿自身は『紅の豚』に対して、「趣味で固めたモラトリアム映画」とか、「ヤケクソのようなタイトル」など、否定的な発言を繰り返しています。これは、本作が元々本格的な長編映画をイメージしておらず、あくまでもお気楽な短編映画の企画からスタートし、「途中から軌道修正を余儀なくされた」ことによる不満だと思われます。また、それ以外にも色々と複雑な想いがあったらしく、過去に雑誌の対談で以下のような感想を述べていました。

日本航空が機内で上映するための短編映画を必要としてたんですよ。でもあまりやる気が無かったので、空中戦のシーンを描きたいと言えば断られるだろうと思ってそう言ったんです。そしたら先方は「それで構いません」と(笑)。だから初めは、能天気に漫画映画を作ろうと思ってたんですよ。豚が戦車に乗ってやってくる話で、『突撃!アイアンポーク』っていうのをやりたかったんですけど、結局これはボツになりました(笑)。

最初、『紅の豚』は僕の趣味を基に、シンプルで軽いテイストのものを作るつもりで始めた作品だったんです。しかし、製作の準備をしているうちにユーゴスラビアが崩壊して、クロアチアドゥブロヴニクや周辺の島々、つまり映画の舞台になっている場所で紛争が勃発した。現実においても突然、争いの地になってしまったんです。『紅の豚』が当初の予定より複雑な映画になってしまったのはそういうわけなんですね。

イタリア人も知らなかった戦闘飛行艇みたいな、このまま歴史の中で消えてしまうものを引っ張り出してこれたっていうのはちょっと嬉しかったですけど(笑)。それは道楽の部分ですよ。オーストリー空軍なんて、第一次大戦で消滅してしまった亡霊みたいな国の空軍が出てきたりね。そういうものを出せたっていうことに関しては嬉しかったですけど、それはあくまでも僕の道楽ですから(笑)。

自分が中年の男性に向けて映画を作ってしまったことに嫌気がさしましたね。とんでもなく下らないものを作ってしまったと(笑)。当時、ヤバいことをやってしまったという思いは本当にありました。いや、嫌いかって言われたら嫌いじゃないんですよ。嫌いじゃないけど、やっぱり子供たちのために映画を作ろうと言ってきた人間ですからね(笑)。それがこういうものを作ってしまったということに対してはね、自分は一体何をしてるんだ?という気持ちになりました。

だけど、実際には多くの子供たちが映画を観に来てくれて、僕に次の映画を作るチャンスを与えてくれました。だから、『もののけ姫』の製作が始まったとき、ようやく『紅の豚』の呪いから解かれた気がしたんです。
(『CUT』2009年12月号より)

ちなみに、当時の徳間書店では『紅の豚』と並行して超大作映画おろしや国酔夢譚を作っていました。普通、同じ会社の2作品が同時期に公開される場合、どちらかの公開日をずらすのが常識です(同じ時期に映画を公開すると観客の取り合いになり、双方とも収益を落としてしまう危険があるから)。

ところが、徳間書店の社長はなんと『紅の豚』の公開日に合わせて、わざと『おろしや国酔夢譚』をぶつけてきたのです。これには鈴木プロデューサーもビックリ仰天!呆れて以下のようにコメントしていました。

「つまり社長は”どっちが勝つか勝負だ!”と言ってるんです。社長という立場にありながら一社員の僕に戦いを挑んでるんですよ。経営者としてはあるまじき態度ですが、プロデューサーとしてなら気持ちはわかる。ちょっと子供っぽいですけどね(笑)」 結局、勝負は『紅の豚』の圧勝でしたが、後日徳間社長から電話で、「勝ってうれしいか?」とイヤミを言われたそうです(笑)。

●『紅の豚』、気になるラストはその後どうなった?
なお、物語の中でジーナさんは「私いま賭けをしてるから。私がこの庭にいる時その人が訪ねてきたら、今度こそ愛そうって賭けてるの。でもそのバカ夜のお店にしか来ないわ。日差しの中へはちっとも出てこない」と言っていましたが、この賭けは結局どうなったのでしょうか?

実はラストシーンでホテル・アドリアーノが映るんですけど、裏庭の方に赤い飛行艇が止まっているのが一瞬だけ見えるのです。ポルコはやって来ていた、つまりジーナさんは賭けに勝ったということですね。でも、描かれている飛行艇がものすごく小さいので、うっかりしてると見逃してしまうかも…(映画を観る際はじっくり目をこらしてご覧くださいw ↓)

●関連記事
type-r.hatenablog.com
type-r.hatenablog.com