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『コクリコ坂から』をもっと楽しむための制作裏話


■あらすじ『1963年の横浜。港の見える丘に建つ古い洋館“コクリコ荘”で暮らす16歳の少女、松崎海は、大学教授の母に代わってこの下宿屋を切り盛りするしっかり者。あわただしい朝でも、船乗りの父に教わった信号旗(安全な航行を祈る)をあげることは欠かさない。そんな海が通う高校では、歴史ある文化部部室の建物、通称“カルチェラタン”の取り壊しを巡って学生たちによる反対運動が起こっていた。ひょんなことから彼らの騒動に巻き込まれた海は、反対メンバーの一人、風間俊と出会う。やがて2人は次第に惹かれ合っていくのだが…。1980年に『なかよし』に連載された同名コミックを、「ゲド戦記」に次ぐデビュー2作目となる宮崎吾朗監督が映画化した長編アニメーション!』



本日、金曜ロードSHOWにて『コクリコ坂から』が放映されます。宮崎吾朗監督の長編第2作目になるこの映画は、主人公の声をV6の岡田准一が、ヒロインを長澤まさみが演じたことでも話題となり、興行収益は2011年度邦画第1位の44.6億円を記録しました。

しかし、例によって制作中にはジブリ社内で様々なトラブルが勃発していたようです。まあ主に宮崎駿さんとか、宮崎駿さんなどに関する問題なんですけどね(パヤオばっかりやんけw)。というわけで、本日は『コクリコ坂から』の知られざる制作秘話についてまったりと書いてみますよ。


●実は押井守庵野秀明が関わっていた
この映画の発端は1990年頃まで遡る。当時、宮崎駿は毎年夏になると信州の山小屋で合宿を開催していたのだが、その時参加していたメンバーの中になんと『攻殻機動隊』の押井守や、『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明らがいたそうだ。3人は朝晩寝起きを共にし、複数の少女マンガ(『耳をすませば』等)を取り上げて「映画になるかどうか」を検討していたという。


そのうちの一つが高橋千鶴の『コクリコ坂から』で、このマンガを気に入った宮崎駿は「いつか映画にしよう」と考えていたらしい(結局、この合宿から20年近くを経て、宮崎駿本人ではなく息子の手によって映画化されることになったわけだが)。ちなみに、柊あおい原作の耳をすませばは、その後宮崎駿が絵コンテを描いてジブリで映画化。また、津田雅美原作の彼氏彼女の事情は、庵野秀明によってTVアニメ化されている。

宮崎駿と少女マンガ
なぜ、宮崎駿庵野秀明はそれほど少女マンガに関心を持っていたのか?そのことについて宮崎駿は次のように述べている。

僕は自分の手元にある『りぼん』とその関連雑誌しか読んでないけど、毎号克明に見ている。それを読んで、少女マンガが力を失うのは当然だと思った。読者を取り巻く現実がシビアな方向に激動しているのに、それを全部切り捨てて世界を作ろうとするから無理が出る。現実が決定されていて頑丈で、これはビクともしないやと、みんなが諦めを感じる時には、現実を描かなくて人間の思いだけ描いてもピュアになれるかもしれない。

でも現実がどこへ行くか分からなくなって、ぐしゃぐしゃになっている時に、完全に周りを真空にして、思いのたけとか、そんなことだけを描いていたら駄目だ。だから今の少女マンガは支持を失っていると思う。かと言って、お父さんがリストラに遭って、お母さんがどこかのクラブに勤めているという漫画を描いたって、誰も読まないしね。だから、物凄く模索しなければいけない時期に、少女マンガもぶつかっているんだと思う。

●悩む宮崎吾朗監督
一方、宮崎吾朗監督は『ゲド戦記』を作って以来、次の作品が決まらずに悩んでいた。様々な企画を提出するものの、なかなか会社の了解を得ることができず、いつしか3年が経過。そんなある日、宮崎駿から『コクリコ坂から』の企画を聞かされた鈴木敏夫プロデューサーは、「これを吾朗君に監督させよう」と思い付く。しかし、吾朗自身は1963年を舞台にした物語を映画化することに当初は難色を示したそうだ。

吾朗監督曰く、「63年と限定されると、その時代に対して極めて真面目に取り組まないといけないじゃないですか。でも、色んな調べ物をしていくうちに、僕は根性が無いから途中で嫌になってくるんです。例えば、セリフの中に舟木一夫のことが出てくるんですが、本当はこの時、舟木一夫はデビューのひと月前なので、時代考証的におかしいんですよ。そういう細かい考証が面倒くさくて。でも”まあ、ひと月ぐらいの差だからいいか”とそのまま出しちゃいましたけどね(笑)」


●ヒロインのモデルは吉永小百合
そんな宮崎吾朗監督の苦労を聞いた鈴木敏夫は、少しでも1963年の雰囲気を知ってもらおうと、当時の吉永小百合が主演した日活青春映画を何本も見せたそうだ。ヒロインの松崎海にはその影響があるという。

鈴木氏曰く、「当時の吉永小百合さんというのは、どこか垢抜けていなくてオシャレな感じじゃなかったんです。でも美人ですよね。それはジブリのヒロインに通じるものがあると思うんですよ。その影響を吾朗君は受けた気がします」とのこと。


宮崎駿はセーラー服が好き!
当初、ヒロインの松崎海の制服は、宮崎吾朗監督の案では紺色のブレザーだった。しかし、それを見た宮崎駿「俺はセーラー服の方がいいなあ」と言ったため、急遽セーラー服姿にデザインし直されたらしい。パヤオさん…(^_^;)


●父と息子、初の共同作業
コクリコ坂から』は監督が宮崎吾朗、脚本が宮崎駿という、実質的な”初の親子合作映画”である。ところが、宮崎駿の書いた脚本には動きのシーンがほとんどなく、会話シーンばかりで構成されていたため、宮崎吾朗は非常に困惑したという。

吾朗監督曰く、「最初にシナリオを読んだ時、何で差し向かいでしゃべってるシーンがこんなに多いんだろうと思いました。”これは僕に対する嫌がらせか?”って(笑)。なんせアニメーションが一番苦手にしている部分で、宮崎駿も自分の映画なら絶対にやらないことですからね。最後のほうの、お母さんと海ちゃんが座っている場面も、”どう表現すればいいんだ?”っていうぐらい難しくて。本当に悩みましたよ」とのこと。


宮崎駿の介入
宮崎吾朗監督がスタジオジブリで作業をしていると、いつも必ず宮崎駿がやって来た。しかし、決して息子とは口を聞かず、周りのスタッフに「今どんな感じ?」と状況を確認していたらしい。一方の吾朗監督は、絵コンテや資料を宮崎駿に見られたくないので必死に隠していたものの、やがて見つかってしまい「キャラクターが暗すぎる!」とか「ヒロインの動作が遅い!」とか色々文句を言い始める。

ついには、壁に貼ってあった吾朗監督の絵を見て「最低な絵だな。全然魂がこもってないじゃないか!」と罵倒し、スタッフに命じて剥がしてしまうなど、介入はどんどんエスカレートしていった。そしてとうとう鈴木敏夫プロデューサーに対して、「あいつは映画監督に向いていない」、「もう俺が監督をやろうか?」などと言い出す有様に。それを聞いた鈴木氏も「ええっ!?」とビックリ仰天。なぜなら、『魔女の宅急便』や『ハウル』のように実際に監督を交代させられた例を知っているからだ。


●シナリオの欠陥
「このままでは宮崎駿に『コクリコ坂から』を奪われてしまう…」と不安になった鈴木氏は、急きょ宮崎吾朗監督を呼び出し、もっとキャラクターを明るくするように指示した。そして、完成していた絵コンテを再度チェックし、問題点を徹底的に検証。すると衝撃の真相が明らかに!その時の状況を鈴木氏は以下のように語っている。

「何しろ明るいヒロインを描こうと思っているのに、海ちゃんが根暗で本当に困ってたんです。僕は必死に”どうすればもっと良くなるか”を考えました。そうしたら、その原因として宮崎駿のシナリオに欠陥があることに気付いたんですよ。シナリオには、LSTの爆発で海ちゃんの父親が死ぬシーンが書いてあったんですが、これを外すべきだと。そしてすぐに、海ちゃんが朝起きて布団を畳むとスカートが寝押ししてあるという、代わりの冒頭シーンを思い付きました」とのこと。


●絵コンテの修正
こうして、当初のシナリオは改変され、それに伴って絵コンテにも修正が加えられた。更に、鈴木氏の提案でドラマのテンポを上げるために「1カットの秒数を減らす」という手法を採用。通常、ジブリの作品は1カットあたりの長さが平均5秒で構成されている。これを4秒にすることで、テンポをアップできるし余計なものを描かずにすむ、と判断したのだ。

鈴木氏曰く、「僕は映画って、二種類あると思うんです。お話が単純で表現が複雑という映画と、お話が複雑で表現はシンプルな作品。『コクリコ坂から』は後者だと思いました。また、1カット4秒でこれだけいろんなことを盛り込んだ登場人物の多い映画を作ることができれば、ジブリにとって新しい映画の誕生だとも思いましたね」


●大地震が勃発、宮崎駿は大激怒!
宮崎吾朗監督が必死に絵コンテを描き直し、ようやく完成したのが2011年3月8日。既にスケジュールはギリギリだったため、「これでやっと映画を制作できる!」と鈴木プロデューサーも一安心。ところがその3日後、東日本をかつてない大規模な地震が襲った。

津波原発事故などで日本中が大混乱に陥る中、その影響はスタジオジブリをも直撃。近年のアニメ制作はパソコンでの作業が不可欠だが、計画停電によってそれができなくなってしまったのだ。会議の結果、やむを得ず混乱が収束するまで会社は休業、スタッフの自宅待機を決定する。

しかし、この決定に宮崎駿は猛反対。「絶対に作業は継続すべきだ!スタジオが生産現場を放棄するなんてとんでもない!こういう時だからこそ、我々は映画を作り続けなきゃダメなんだよッ!」と会議室に乗り込んで怒鳴り散らしたらしい。その結果、余震が続く中をアニメーターはジブリに集結し、PCを使うスタッフは真夜中からの作業を余儀なくされた。その間、宮崎駿は社員達にカレーパンを配っていたという。


●親子の確執は続く
それから数カ月後、様々な紆余曲折を経て、ようやく『コクリコ坂から』は完成した。初号試写には宮崎駿も出席(『ゲド戦記』の時は試写の途中で出て行ってしまったが、今回は最後まで席を立たなかったらしい)。

しかし、映画の内容については何やら釈然としない思いがあったようで、鑑賞後に感想を聞かれた宮崎駿は「少しはこっちを脅かせてみろ!って。それだけだよ」と憮然とした表情で答えている。それに対して宮崎吾朗監督は「クソ親父!それまで死ぬなよ!」と一言。本当に海原雄山山岡士郎みたいな親子だなあ(笑)。


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