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猿の惑星:創世記(ジェネシス)ネタバレ感想


■あらすじ『製薬会社の研究所でアルツハイマー治療の研究をする神経科学者、ウィル・ロッドマン(ジェームズ・フランコ)は、開発中の新薬を投与したチンパンジーの知能が驚異的に発達したことを確認し、その成果を発表した。しかし、そのチンパンジーは突然暴れ出し、警備員によって射殺されてしまう。事態を重く見た所長はプロジェクトを中止させるが、射殺されたチンパンジーは妊娠中だったことから、ウィルは生まれたばかりの赤ん坊を秘かに引き取るとシーザーと名付け、自ら育てることに。そして、次第にウィルとシーザーの間に人間の親子のような絆が芽生えていく。その一方で、シーザーは並外れた知性を発揮し始めていった。ところが、すっかり成長したシーザー(アンディ・サーキス)はある日、ウィルの父を助けようとして隣人とトラブルを起こしてしまう。それが原因でウィルと引き離され、類人猿保護施設の檻の中で屈辱と絶望の日々を送ることに。多くの猿が人間に蹂躙されている現状を見て、シーザーはあることを決断する…!映画の金字塔「猿の惑星」を基に、その起源となる人類文明崩壊への道のりを明らかにしていくSFアクション超大作!』



猿の惑星』(オリジナル版)は、1968年に20世紀フォックスが制作した名作SF映画である。当時の20世紀フォックスは経営状態が非常に悪く、あまり多くの製作費を掛ける事ができなかったが、『猿の惑星』の大ヒットにより会社は持ち直し、その後4本の続編が作られる程の人気シリーズになった。

「宇宙飛行士が不時着したその星は、猿に支配された恐ろしい惑星だった!」という衝撃的な内容に当時は多くの観客が驚嘆し、「映画史に残るラストシーン」を見て度肝を抜かれたという。今ではすっかり有名になってしまったが、”自由の女神”が映し出される例の場面を初めて見た時は、確かに物凄いインパクトを受けたものだ。

で、『猿の惑星:創世記ジェネシス)』は、「いったいなぜ、猿が人間を支配するような状態になってしまったのか?」という過程を描いた前日譚である。実は、『猿の惑星』の続編『猿の惑星 征服』(1972年)でその理由は描かれているんだけど、「未来から頭のいい猿がタイムスリップしてきてその子孫が増えたから」という安易なもので、「じゃあ、どうして猿がしゃべれるようになったんだよ?」という根本的な問題が解明されていなかった。

それが今回、「アルツハイマーの治療薬により猿の知能が劇的に進化したから」という理由付けが成され、説得力が大幅に向上している。ただし、この理由では過去のシリーズとの整合性が取れないため、本作は前日譚というより独立した新シリーズの第1作目と見るべきかもしれない。

映画の内容に関しては、まあ大体予告編で流れているようなことしか起きないんだけど、とにかくシンプルで無駄が無い。しかも、上映時間がたったの106分しかないにもかかわらず、主人公とシーザーの交流や父親とのドラマなど、重要な場面はきちんと描かれている。

さらに、モーションキャプチャーを使用した猿のアクションが実に素晴らしく、細かい表情の変化まで見事に再現。クライマックスのゴールデンゲート・ブリッジにおける大迫力の戦闘シーンに至っては、まさに娯楽映画的快感に満ち溢れた一大エンターテイメントに仕上がっており、満足度は高いと言えよう。

ただし、ストーリーは猿の軍団が人間に反旗を翻したところで終わるため、やや物足りなさが残る。あの後、どのような経緯を経て人間と猿の立場が逆転したのか?そこが一番知りたい部分であり、本来はそこから物語が始まるのに、「いいところで終わっちゃってる」感がちょっと微妙だ。まあ、ラストは思い切り続編を匂わす終わり方になっているので、ほぼ確実に続きは作られるんだろうけど(続編の感想はコチラ)。


以下、ネタバレ有りの感想です!映画を観ていない人はご注意ください!


上記で書いたように、基本的には非常に良く出来た面白い映画ではあるものの、いくつか気になる点もあったので検証してみたい(ややネガティブな印象になっており、この映画が好きな人には申し訳ない)。


●登場人物に倫理観が無い
主人公は会社の所有物である実験用の猿を勝手に持ち出し、自宅でこっそり飼育する。明らかに服務規程違反だが、ほっといたら安楽死させられていたので、これはまあ仕方が無いと考えよう。だが、開発途中の薬品を盗み出し、自分の父親(ジョン・リスゴー)に投与するってのはムチャクチャだ(完全に人体実験である)。

しかも、そのことを所長に報告すると咎めるどころか「これで会社が儲かる!」と大喜び。お前らにはモラルが無いのか?主人公がしでかした行為のおかげで、全人類がエラいことになるというのに。


●病気になったらまず病院へ行け!
主人公の同僚が新薬の実験中に体調不良を訴える。どうやら、おかしな病気に感染したらしい。しかし、彼は病気のまま外を歩き回り、人の迷惑も顧みず周囲にウイルスを撒き散らすのだ。結果、世界中に病気が蔓延してが大パニックに。重要な用件ならとりあえず電話しろよ!つーか、その前に病院へ行け!病気の体でウロウロすんな!


●彼はそんなに悪い事をしたのだろうか?
『ハリポタ』シリーズのマルフォイ役でお馴染みのトム・フェルトンが、今回演じているのは飼育係の青年役。彼は最終的にシーザー達によって殺されてしまうわけだが、映画を観ていて感じた疑問が一つ、「果たして彼はそんなに悪い事をしたのだろうか?」。

その行為を冷静に振り返ってみると、「ホースで水をかける」「電気警棒で殴る」「悪口を言う」ぐらいしかやってないのだ。途中、様子を見に来た主人公がシーザーの体についた傷を見つけて「お前がやったんだろう!」と詰め寄るが、それは他の猿にやられた傷だよ!

つまり(マルフォイのイメージを引きずっているので、あからさまに嫌なキャラに見えるが)、実際に危害を加える場面は意外と少ないのである。例えば、電気警棒で攻撃するシーンなどは確かに「酷い!」と思うかもしれない。

しかし、自分の背丈ほどもあるデカい猿が言う事を聞かずに施設内を歩き回っている状況で、しかも自分の他には頼りなさそうなスタッフが一人いるだけ。これじゃ、武器を携帯していなければ怖くて対応もできないだろう。

唯一、”虐待”と思えるシーンは水をかける場面のみだが、逆に言えば「これだけで殺されるの?」という印象だ。正確には殺されたのではなく「事故死」という展開なんだけど、娯楽映画としての観点から見ると、キャラクターが死ぬ必然性に乏しいと言わざるを得ない(彼が死ななくてもストーリーは成立するし)。

つまり、この映画はシーザー側から見た”正義”を描いているわけで、彼の死をきっかけに”猿 VS 人間”の対決は引き返せない局面へ突入していくのだ。すなわちトム・フェルトンの死は”物語上の必然”ではなく、シーザーの決意を誘発させるための単なるトリガー的な役割にすぎないのである。


●悪い奴がいない
そう考えると面白いことに気付く。この映画には決定的な悪者が出て来ないのだ。この手の娯楽映画の場合、まず「絶対的な悪者(ラスボス)」を設定することがセオリーとされている。徹底的にシーザーを痛めつけ、直接的にも間接的にも攻撃する嫌な人物を配置することによって、「なんて悪いヤツなんだ!」「シーザー頑張れ!」と観客の共感を獲得できるし、だからこそ最後に悪人をやっつけた時に「やったぜ!」というカタルシスが得られるわけだ。

ところが、この映画で悪人と呼べるキャラは、せいぜい研究所の所長と飼育係だけで、しかもどちらも「そこそこの悪いヤツ」という印象しかなく、強烈な存在感に乏しい。二人のシーザーに対する行為は、あくまでも”凶暴な猿に対する行為”としては普通の対応であり、極悪非道というほどのレベルではない。これが「エンタメ的なカタルシスに乏しい」と感じる理由だろう。


●隣のおじさんが可哀想すぎる
色々な人が被害に遭っている本作であるが、一番の被害者と言えばやはり「主人公の家の隣に住んでいるおじさん」ではないだろうか?自宅の敷地内に変な猿が侵入してくれば、家族を守るために必死で防衛するのは当然だ。

また、ボケた老人が勝手に自分の車に乗り込んで運転していたら、「オイ、何するんだよ!」と文句の一つも言いたくなるだろう(あくまでも注意だけで暴力は振るっていない)。おじさんは「当たり前の行為」をしただけなのだ。それなのに、車は壊され、猿に殴られ、指を噛み切られ、挙句の果てに変な病原菌までうつされ、散々な目にあっている。気の毒としか言いようがない。


●シーザーは戦国武将マニアか?
「一本の矢では簡単に折れてしまうが、三本になれば…」とオランウータンに説明するシーザー。「それって毛利元就じゃん!どんだけ日本通なんだよ!」と驚いたが、良く調べたらイソップ寓話に「三本の棒」という物語があるらしい。毛利元就じゃなかったのか(^_^;)

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