ひたすら映画を観まくるブログ

映画やアニメについて書いています

宮崎吾朗監督『ゲド戦記』ネタバレ映画感想

■あらすじ『多島海世界“アースシー”で、西海域の果てに棲む竜が、突如、人間の住む東海域に現われた。それに呼応して世界の均衡が崩れ、さまざまな異変が起こり始める。偉大な魔法使い:大賢人ゲド(菅原文太)は、災いの源を探る旅の途中、心に闇を持つ少年エンラッドの王子アレン(岡田准一)と出会い、影におびえるアレンを伴ってホート・タウンの街はずれにある家に身を寄せた。そこには親に捨てられた少女テルー(手嶌葵)も住んでいた。彼女は、自暴自棄になっているアレンを激しく嫌悪するがやがて…。ル=グウィンの名作ファンタジーを、宮崎駿の息子の宮崎吾朗が映画化した長編アニメーション!』



というワケで、“絶賛酷評中”の『ゲド戦記』を観て来た。圧倒的な評判の悪さを反映してか、夏休みだというのに客の入りもかなり少な目で空席も目立つ。大丈夫かジブリ?どーなるジブリ!?なお、例によって原作は未読。あくまでも、映画本編のみの評価として書きたいと思います。

「ストーリー展開が単調でひたすら退屈」、「声優がヘタ」、「作画の粗さが目に余る」「キャラクターに魅力が無い」「背景美術が手抜きだ」「全体的に説明が不足している」「これホントにゲド戦記?」などなど、色々なサイトやブログに書かれている罵詈雑言の数々は、残念ながら「概ねその通り」と言わざるを得ない、トホホ。

特に僕が気になったのは、スケール感の無さ。世界が広そうに見えて、実は意外と狭いのだ。出てくる舞台は主にホートタウン、テナーの家、クモの城の3カ所のみ。後半に至っては、殆どが家と城を行ったり来たりするだけの“ご近所ムービー”になってしまっている。

そして、なぜアレンが父を殺めたのか、物語の根幹に関る重要な事件の説明が全く無い(一応理由は有るんだけど、アレで納得しろと言うのは無理があるぞ)。さらに、テルーの生い立ちやゲドの人物背景、テナーとの関係などもほとんど説明無し。

観客自身に考えさせるという意図の上での表現方法なのかもしれないが、「命を大切に」などというただでさえありふれたテーマなのに、こんな抽象的な伝え方をされたら考える気も起こらない。そもそも、“ゲド戦記”って言う割にはゲドが単なる語り部になっているのはいかがなものか?

声優に関しては、ゲド役の菅原文太はさすがに上手い。アレン役の岡田准一も(ボソボソと喋る滑舌の悪いセリフ廻しが、演技なのか地なのか分からないが)、アレンの“常軌を逸したダメ人間ぶり”を見事に表現しており、実に良かった(でも、こんなに覇気の無いキャラって初めて見たよw)。

ただ、他のキャストは正直微妙。中でも、テルー役の手嶌葵は世間の評判通りかなり酷い。いくら「新人」である事をテロップで強調したところで、到底許されるレベルではないだろう。

また、ヴィジュアルやキャラクター造形に“華”が無さ過ぎるのも問題かと。今回は宮崎吾朗監督の意向で、意図的にキャラの線や色数を減らしたり、背景画の密度を落としたりしている。その理由は「シンプルな絵で、アニメーション本来の魅力を取り戻したい」ということらしい。

確かに、監督のやりたい事は何となく分かるし、ヴィジュアルの精度を下げる事によってアニメーションの表現効果が上がるのであれば、何の問題も無いとは思う(線や色数は少ない方が、キャラを動かすには有利なのだ)。

しかし、本作ではキャラの動きが格別に良くなったワケでもないし、目立った効果が上がっているようには見えない。そのため、地味な映像を延々と見せられた観客からは、「以前より絵が雑になった!」とか「手抜きだ!」などと罵倒される結果になってしまったようだ。

CGの多用を控えたり、影を付けないのはいいとしても、服の皺まで省いてしまうのはちょっとやりすぎではないか?はっきり言って“テレビ並みの映像クオリティー”と言われても仕方がない。劇場の大画面で観たら、あまりの情報量の少なさに腰が抜けそうになるぞ。『風の谷のナウシカ』の時代よりも、更に作画レベルが後退したような印象だ、トホホ。

また、「描いている草の種類まで判別出来る!」と業界関係者を震撼させたジブリ自慢の高密度背景美術も、今回はかなり“ざっくり”としたイメージを残すのみ(但し、これは好みの問題なので、個人的にはあまり気にならなかったが)。広い層を狙ったファンタジーなんだから、せめて服装ぐらいはもうちょっと何とかして欲しかったなあ。

それでいて、話のスケールも小さく意外な展開も無いとくれば、見た目と内容の両方で地味すぎるという、まさに痛恨のダブルパンチ。爆睡者が続出するのも当然と言えよう。

だが、個人的に感じた最大の問題点は、“あまりにも宮崎駿の作風に似すぎている”、という点だ。もっと厳密に言えば、「吾朗監督の意図とは裏腹に似てしまった」という感じだろうか。これはむしろ当然と言うべきで、幼い頃から慣れ親しんできた宮崎駿の絵柄やストーリーラインの影響からは、そう簡単に逃れられるハズがない。

また、プロデューサーの鈴木敏夫からも、キャラクターの作成に難航した挙句「今回はお父さんの絵を使わせてもらおう」と進言されたらしい。雑誌のインタビューでは、宮崎吾朗は以下のように語っている。

「当然比較されるだろうから、違う方向に行った方がいいだろうっていうのは最初から思ってましたよ。同じ方に行ったら勝負にならないし、そんな才能が自分に無いのは分かってたんで(苦笑)。でもやっぱり、宮崎駿が作ってたようなものを作りたいっていうのは、気持ちのどこかにあったんでしょうね。いざ絵を描こうとすると、頭に浮かぶのはあの絵だし。コンテを描いても“親父さんに似てるね〜”って言われちゃうし。で、どうせ似ちゃうんだから、開き直って借りちゃえと(笑)。もちろん、ジブリ作品だからそれを求める人もいるワケだしね。そこで変にオリジナリティを主張してもしかたがないし、それほどの力量はまだ、自分には無いと思ったんですよ」(週刊プレイボーイより)

その言葉通り、本作は“ジブリっぽいキャラクター”、“ジブリっぽい作画”、“ジブリっぽいシチュエーション”に満ち溢れており、一見宮崎駿監督の映画を観ているかのような錯覚に陥る。

だが、どんなに宮崎駿のスタイルを踏襲しようとも、それらは所詮模倣に過ぎない。テーマは有り、物語もある程度まとまってはいるが、映画としてそれほど大きな魅力を感じることは出来ないのだ。いったいナゼか?

一番分かりやすい要素を挙げると、“キャラクターに魅力が無い”という点だろう。それぞれが様々な葛藤や想いを抱えているように見えるが、それらは単に表層部分を描写しているだけに過ぎず、ありきたりで物凄く薄っぺらい印象を受けるのだ。

例えば、ウサギなどはいかにも宮崎アニメに出てきそうな造形ではあるものの、そのセリフ廻しや言動はあまりにもステレオタイプで中身が全く無い。

ラスボスであるはずのクモにしても、“悪役っぽい”雰囲気だけは十分に出ているが、実際にどんな悪事を働いたのか具体的な描写が一切無いため、全然恐ろしさが伝わってこない。悪役ですら魅力的に描き出す宮崎アニメの、足元にも及んでいないのだ。

メインのキャラもこれと同様で、どんなに感動的なセリフを喋っても、全く心に響いてこないし共感もできないのである。この差は一体どこから出てくるのだろうか?もちろん、大ベテランの宮崎駿と新人監督では最初から比べ物にならないことは分かり切っているのだが、原因はキャリアの差だけではない。

今更言うまでも無く、宮崎駿は天才的なアニメーターだ。アニメーターの本質とはキャラを動かす事であり、動かす事によって全てを表現出来ると信じている。アニメーター上がりの監督は、キャラを動かす事にこだわりを持っている人が多い。それは巨匠:宮崎駿と言えども例外ではなく、“大物監督”となっても尚、スタッフと共に自ら原画を描きまくる姿には驚嘆せざるを得ない。

そして自分でキャラを描く事により、セリフだけでは伝わらないような細かいニュアンスや心情を徹底的に“動き”で表現しようとしている(“動き”とはもちろんアクションだけではなく、会話や食事シーンなど、日常的なあらゆる動作の事を指す)。それは文字通り、“キャラに命を吹き込む”行為なのだ。

そう、宮崎駿が生み出すキャラたちは皆生きている。主役であろうと、悪役であろうと、一人一人に魂が込められている。どんなに“宮崎テイスト”を真似しようとも、生命力と躍動感に満ち溢れたキャラクターたちの魂までは、決してコピーする事はできないのだ!

すなわち、本作の最大の欠点は、“宮崎駿風でありながら、キャラクターが立っていない”という状況に違和感(またはギャップ)を感じてしまう点だろう。作風が完全に異なっていれば、そんなギャップは感じなかったハズだ。さらに、キャラが立っていない原因は、その混沌とした作品世界とも無関係ではない。

吾朗監督の描く『ゲド戦記』は、“得体の知れない不安感に苛まれ、身内を殺してしまった少年”や、“子供を虐待する親”や、“均衡の崩れた世界”など、如実に現代の世相を反映している。だが、そうした世相に対する吾朗監督の明確な主張が、映画の中で表現し切れていないのだ。

「伝えたい事はあるんだけれど、どのように伝えたらいいのか良く分からない」、そんな吾朗監督の戸惑いみたいなものが、キャラクターたちにも現れているのではないだろうか。結果、キャラクターたちの目的や行動原理がはっきりせず、“キャラ立ち”しないまま話が進んでいく。

ある意味、監督の心情がストレートに出てしまっているワケだが、分からないからと言って単に「命を大切に…!」と連呼するだけでは映画にする意味が無いし、作り手の想いも観客には伝わらないのだ。この辺の“伝え方”や“キャラの立たせ方”のテクニックをいかに向上させるかが、今後の課題になると思う。

というワケで、延々と文句ばかり書き綴ってきて今更こんなことを言うのもアレだが、正直それほど酷い駄作とは思えなかった。原作の『ゲド戦記』は全く知らないし、一本の映画として見た場合、「まあ、こんなモンか」という感じで、腹が立つほどのダメ映画では決してない(事前に散々悪評を聞いていたせいかもしれないが)。むしろ、美術館の館長が作った映画にしては、良く出来ている方だと思うぞ(笑)。

個人的に一番気になったのは上に書いた通り、宮崎駿に似ているが中身が伴っていない”という点だ。吾朗監督本人も「同じ方向では勝負にならない」と自覚しているのだから、どんなに困難でも“オリジナルの作風”で勝負するべきだったと思う。

もし、第二回宮崎吾郎監督作品が作られるのであれば、今度こそ宮崎駿風”ではなく、本物の“宮崎吾朗”の映画を見せてもらいたい。酷評を受けたまま終わってしまうのは、本意ではないだろう。是非とも再戦して下さい、吾朗監督!

※「映画監督にとっては、2本目が本当の勝負なんだよ。リターンマッチこそが本当の勝負で、そこから本当の旅が始まるんだ」(by押井守



●人気記事一覧
これはひどい!苦情が殺到した日本語吹替え版映画ワースト10
まさに修羅場!『かぐや姫の物語』の壮絶な舞台裏をスタッフが激白!
日本映画のレベルが低くなったのはテレビ局のせい?
町山智浩が語る「宮崎アニメの衝撃の真実」
「映像化不可能」と言われている小説は本当に不可能なのか?


このブログについて(初めての方はこちらをどうぞ)
トップページへ