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メル・ギブソン監督『パッション』映画感想

パッション

■あらすじ『弟子のユダに裏切られ、大司祭が差し向けた兵に捕らえられたイエスジム・カヴィーゼル)。裁判で自らを救世主だとほのめかしたイエスは、神の冒涜者としてローマ提督ピラトに引き渡された。ピラトはイエスの罪が不明確だと知りつつも、敵意をあらわにする司祭と群衆を前に、彼を十字架にかける決定を下す。鞭打たれ、傷だらけの体で十字架を背負い、イエスゴルゴダの丘へと足を進める。磔にされながらも人々のために祈り続け、イエスはやがて、最期の時を迎えるが・・・。メル・ギブソンが、12年もの歳月と莫大な私財をかけて作り上げた『パッション』は、新約聖書の世界をリアルに映像化し、イエス・キリストの受難を凄惨なまでに描いていく。そのあまりにもショッキングな内容は、ヴァチカンをはじめ世界中に議論を巻き起こした。ギブソン監督自身がラテン語アラム語で脚本を書き上げ、全米公開時には英語字幕をつけるというこだわり様。まさに渾身の一作である。』



いや〜、これは凄い映画だ。何と表現したらいいのか、言葉に詰まる。そもそもこれは”映画”なのか?っていう(笑)。一つの大きなストーリーから特定の一部分を抜き出して、それを無理矢理2時間に引き伸ばしただけのように思える(というか、実際その通りなんだけど)。これの前後にドラマがくっついて、初めて映画として成立するのではないだろうか。

とにかく、最初から最後までひたすら主人公が拷問される様子を見せ付けられるだけの展開に、面食らう人が続出するのも無理は無いと感じた。少なくとも感動的な物語をこの映画に求めたりしたらとんでもない目に遭う、ということだけは間違いない。

メル・ギブソンが「今までにも聖書を題材にした映画は存在したが、どれもぼんやりとした神話的なイメージにしか見えなかった。だから『パッション』では、観客がキリストの受難を体感できるような、強烈な映像を作りたかったんだ。その為に暴力描写は必要不可欠な要素だったんだよ」と述べているように、この映画は常軌を逸したスプラッター描写によって、一人の人間が破壊される様を延々と映し出すだけの作品となっている。

はっきり言って『パッション』は、ストーリー性を欠いたスプラッター指数だけが異常に高い、狂った映画であると言わざるを得ない。聖書を題材にしていながら、なぜこんな映画が出来上がってしまったのか?それは『パッション』の元ネタが聖書ではないからである。

メル・ギブソンが感銘を受け『パッション』の下敷きにしたものは、アン・キャサリン・エメリッヒの「黙示による我らが主イエス・キリストの悲しい受難」という本だ。アン・キャサリン・エメリッヒはオカルト方面ではちょっとした有名人の尼さんで、いわゆる”聖痕現象体験者”として知られている。

しかし彼女が書いたこの本は、「彼女が妄想したキリストの受難」が綴られているにすぎないのだ。したがって、これを元ネタに作られた『パッション』に、ことごとく聖書と異なった表現が見受けられるのも当然と言えるだろう。

かくして、聖書とは何の関係も無く、主演のジム・カヴィーゼルをただひたすら徹底的に痛めつけるだけの残虐映画が完成したのである。鞭打ち、茨の冠、手の平にクギをぶち込み十字架にかかげる!皮膚は破れ、血は滲み、満身創痍のイエス様。中でも最も壮絶なシーンは、イガイガの鉄球が無数についた特製の鞭でシバかれる場面だ。

ケタ外れの破壊力を誇るこの鞭が振り下ろされるたびに、イエス様の皮膚がえぐれ、血が噴出し、あばら骨が露になる!あまりにも凄まじい残酷描写の数々に、劇場で鑑賞中のお婆さんがショック死するという、前代未聞のアクシデントまで発生!ユダヤ人たちからは「昔のユダヤ教の人たちが悪く描かれすぎている!」と上映反対を訴える猛烈な抗議まで殺到したほどだ。

しかしメル・ギブソンによると、「本当はもっと残酷にしたかったけど、観客が引くといけないと思ってソフトな表現におさえてある」らしい。これだけやっても、まだ足りないのか!?まさに本作は、“信仰”の名を借りた2時間あまりの一大スプラッター残酷ショーであると言えるだろう。

映画の出来はともかく、「とてつもないモノを観た」という印象だけは強く残る、うなされそうな怪作だ。「つまらない」とは思わなかったが、決して人に薦めようとも思わない、何とも評価に困る一本である。興味のある人だけどうぞ(閲覧注意)。