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米林宏昌監督『借りぐらしのアリエッティ』制作裏話


■あらすじ『14歳の小人の少女・アリエッティは、人間に見られてはいけないという掟の下、郊外にある古い屋敷の床下で、人間の生活品を借りながら両親と密かに暮らしていた。そんなある日、その屋敷に引越してきた病を患った少年・翔に自分の姿を見られてしまい、アリエッティは外の世界で暮らすことを余儀なくされる。しかし、好奇心旺盛なアリエッティは父親の心配をよそに、次第に翔に近づこうとするのだが…。原作は1952年にイギリスで出版されたメアリー・ノートンの傑作児童文学『床下の小人たち』。舞台をイギリスから日本に移し、小人の少女アリエッティと人間の少年のひと夏の触れ合いを爽やかに描くスタジオジブリ製作のファンタジー・アニメーション超大作!』




本日、金曜ロードショー借りぐらしのアリエッティが放映されます。スタジオジブリの長編アニメではありますが、監督は宮崎駿ではなく新人の米林宏昌さん。当時、35歳の米林さんは監督経験が全く無いにもかかわらず、いきなり初監督作品で予算数十億の超大作を任され、「異例の大抜擢!」と大きな話題になりました。

しかし、その舞台裏では宮崎駿鈴木敏夫による「熾烈な駆け引き」が行われていたのです…!というわけで、本日は『借りぐらしのアリエッティ』の知られざる制作秘話を書いてみましたよ。


2008年6月頃、スタジオジブリでは『崖の上のポニョ』の次回作をどうするかという打ち合わせが行われていました。その時、中心となって企画を進めていたのがプロデューサーの鈴木敏夫さんです。

元々、鈴木さんは『ぼくと「ジョージ」』という外国の児童文学作品をやりたかったのですが、宮崎さんは誰かの企画に乗っかるのがあまり好きではないらしく、「モチベーションが上がらない」などと若手ダメ社員みたいな言い訳で保留にしていました。ただ、他にいい企画もなかったので、ジブリの次回作は『ぼくと「ジョージ」』でほぼ決まりかけていたそうです。

ところが、「このままでは『ぼくと「ジョージ」』をやることになってしまう」と切羽詰まった宮崎監督が、ある日突然「鈴木さん、アリエッティをやろう!」と言い出しました。「やろう」と言ったものの、特に深い考えがあったわけではなく、単なる思い付きでしかありません。

なんせアリエッティの企画は、高畑勲宮崎駿の2人が40数年前に考えたもので、それをたまたま思い出しただけなのです(原作小説の『床下の小人たち』はすっかり忘れていたが、主人公の「アリエッティ」という言葉の響きが好きで、その名前だけをずっと覚えていたらしい)。

鈴木敏夫さんによると、宮崎監督はとにかく負けず嫌いで、映画の企画でも何でも「他人の提案に従うのは嫌だ!」と考える性格らしく、この時も『アリエッティ』をやりたいというより、『ぼくと「ジョージ」』をやりたくないがために、敢えて別の企画を提案したのだそうです(そんなんでいいのかよw)。

当然、鈴木さんは自分の企画をひっくり返されるわけだから面白くありません。「僕が長年温めてきた企画を、いきなり”高畑勲と二人で考えた企画だからこっちにしろ!”って言われても、納得できるわけないでしょう。それ、脅しですよね(苦笑)」と宮崎さんの強引なやり方に不満を持っている様子。

「でも32年も一緒にやっているので、マトモに喧嘩するのはつまらない。だから、別の形で喧嘩するんです。別の形というのは、”宮さん(宮崎駿)が言い出したんだから、シナリオは宮さんが書けばいいじゃない”とかね。言い出しっぺなんだから、その責任も取れと。まあそうは簡単にいかなかったんですが、状況としてはそういうことですよ」とのこと。


こうして、半ば無理矢理にスタートした『アリエッティ』の企画ですが、この時点では監督が誰になるのか全くの未定。ただ、若手を起用することだけは決まっていたようです。発端は「ジブリの5年間の経営計画を立てた!」という宮崎さんの発言からでした。

ある日突然、その計画を聞かされた鈴木さんはビックリ仰天。なぜなら、ジブリの経営は鈴木敏夫や他の優秀なスタッフが管理しており、宮崎監督はほぼノータッチだったからです。鈴木さん曰く、「32年間付き合ってきたけど、宮崎さんから”経営”なんて言葉を聞いたのはあの時が初めてだよ(笑)」

そんな宮崎さんが考えた”ジブリ中長期経営計画”とは、まず「若い人の作品を3年で2本作る」というもの。その後に宮崎監督が超大作を作り、5年で3本の映画を制作する計画だそうです。これは、ずっと2年で1本のペースでやってきたジブリにとって、初めての取り組みでした。

宮崎さん曰く、「世の中が激動していて、明日何が起こるか分からない現代。そういう時には若い人で、勢いのある作品を2本連続で作るべきなんじゃないか」と。なので最初から、『借りぐらしのアリエッティ』の企画は若い人にやらせると決まっていたそうです。

また、その裏側には「宮崎駿の高齢化問題」もありました。宮崎さんも歳をとって映画作りに時間がかかるようになっている。その間はどうするのか?スタッフも大勢いるし、何かやらないと会社が成り立たない。それで、「とにかく若い人にやらせてみよう」と決断したらしい。

さて、こうして企画は決まったものの、監督候補みたいな人がそんなにいるわけではありません。宮崎さん自身も誰を監督にしたらいいのか分からない。そんな時、宮崎さんは「鈴木さん、監督はどうするの?」と知らん顔して聞いてくるのだそうです。

それまで2人で「監督どうしよう」と散々議論し、なかなかいないということはお互い分かっているくせに、急に「会社の責任者としてあなたが決めなさいよ」みたいに無茶振りされた鈴木さんは呆気に取られてしまいました。

しかし、言われたままで黙っているのはあまりにも悔しい。そこで「とにかく具体的な名前を言って驚かせてやろう」と考え、思わず「麻呂(まろ)」と言ってしまったのです。麻呂というのは、宮崎駿が育ててきたジブリのアニメーター:米林宏昌(よねばやしひろまさ)さんのこと。

崖の上のポニョ』でポニョが魚に乗ってやってくるダイナミックなシーンを描いた人で、宮崎駿にとっては”右腕”とも言えるほどの、とても大事なスタッフだそうです。そんな彼を監督にするということはどういうことか?

アニメーターとしての米林さんは宮崎監督のスタッフで、言わば上司と部下の関係です。しかし、米林さんが監督になるとその瞬間から同じ立場になってしまう。これは、宮崎さんにとって非常に困った状況になるわけですよ。なぜなら、優秀なスタッフを奪われた上にライバルが出現するからです。

そこで鈴木さんは、「麻呂の名前を出せば、きっと宮さんが困るに違いない」と考え、自分の企画を潰された仕返しにワザと米林さんを推薦しました。その策略通り、鈴木さんが「麻呂」と言った瞬間、かつて見たことがないくらい困った顔をしたそうです。「してやったり!」と内心ほくそ笑む鈴木敏夫(それって単なる嫌がらせじゃんw)。

ところが、鈴木さんの一言で困り果てた表情を浮かべた宮崎さんですが、下を向いてしばらく考えていたかと思ったら突然立ち上がり、「じゃあ、すぐに麻呂を呼ぼう。あいつが引き受けるかどうかで決めちゃおう!」と言い出したのです。思い付きで「麻呂」と言ってしまった鈴木さんも、今さら後には引けません。急遽、会議室に米林さんが呼び出されました。

驚いたのは米林さんです。さっきまでアニメーターとして絵を描いていたのに、いきなり宮崎駿鈴木敏夫の”ジブリ2大巨頭”から「次回作の監督はお前がやれ!」と迫られたのですから完全にパニック状態!なにしろ米林宏昌さんが『アリエッティ』の監督に抜擢された当時は35歳という若さであり、スタジオジブリの歴代監督の中では最年少だったからです。

しかも(アニメーター歴は13年ですが)、演出に関してはテレビシリーズの監督を経たわけでもなく、作画監督はおろか絵コンテすら描いたことがない全くの未経験者。本人も「この企画が来るまで演出をしようなんて考えたこともなかった」とコメントしているぐらい素人同然の状態でした。

なので、いきなり「監督をやれ!」と言われた時も「な、なんで僕がやるんですか!?無理ですよッ!」と速攻で断ったそうです。本人曰く「映画監督とは、何か自分の伝えたいことがある人や明確な主義や思想を持っている人がなるべきだと思っていた」そうで、自分にはそういうものが無いからできない、と一貫して拒否し続けました。

しかし、宮崎・鈴木両氏の追求は凄まじく、「主義とか思想なんてものは全部この中に書いてある!」と原作小説を目の前に投げ付けられた米林さんはビビリまくり。長時間に及ぶ二人の執拗な脅迫…いや説得に耐え切れず、とうとう「しばらく考えさせてください」と答えてしまいました。

すると次の日から毎日、「原作読んだか?」と朝から宮崎さん、午後からは鈴木さんの猛攻撃が始まったのです。米林さんに対する連日の攻撃は緩むどころか日を追うごとに激しさを増し、挙句の果てには「どういうテーマで作るんだ?」「いつから始める?」とどんどん追い詰められていきました。そして2週間後、ついに根負けした米林さんが「監督やります……」と二人の要請を受け入れることになったそうです(ひどい話だw)。

さて、こうして無事に(?)監督が決まった『アリエッティ』は、続いて脚本作業に入りました。鈴木さんは「とりあえず若手にやらせてみよう」と考え、米林監督と2〜3人のスタッフにシナリオを依頼。

しかし、誰も自分達でやったことがないのでなかなか上手くいきません。結局、見かねた鈴木さんが「宮崎さん、シナリオ書いてください」とお願いすることに。ついでに美術設定も宮崎さんがやることになりました。

脚本と美術設定が出来上がると、それを元に米林監督が絵コンテ作業に突入。ところが、脚本を読んだ米林監督は妙なことに気付きました。宮崎さんの脚本は、前半は入念に細かいところまで書いてあるのですが、後半に進むにつれて緩くなるのです。

これは、宮崎監督の経験上「作っているうちに内容が変わってくる」ということを知っているからで、そのため後半はわざと緩く書いてあるらしい。それに気付いた米林監督は、後半にどんどん自分なりのアレンジを加えていきました。


しかし、ここでまた新たな問題が発生します。米林監督がどんな絵コンテを描くのか不安に思った宮崎さんが、連日のように「絵コンテできたか?」「絵コンテまだか?」と仕事場をウロウロ。米林監督はそれが気になって作業に集中できません。そこで鈴木さんはなんと、都内の某マンションに米林監督を”隔離”してしまったのです。

そんなことを全く知らない宮崎さんは、ある日突然、米林監督が”行方不明”になったために「どこへ行ったんだ!」と大騒ぎに。ジブリの社員は鈴木さんから「絶対に宮さんには居場所を教えるな!」と厳しく注意されていたので、誰も口を割りませんでした(結局、米林監督は2カ月にも渡ってひたすら隠れ続けるはめになったらしい)。

そして、絵コンテが完成し、実際に作画作業が始まってからも問題が発生し続けました。今まではアニメーターとして自分の役割をこなしていれば良かった米林さんですが、監督になったら美術の方向性をどうするかとか、色指定をどうするかとか、作品全体を見なければなりません。

ところが、米林さんには「全体を支配しよう」という気が全くなかったという。どちらかと言えば「いい作品になるなら積極的に他人の力を借りたい」と考えるタイプだったらしく、美術担当者が武重洋二さんに決まった時にも、「僕は良く分からないのでよろしくお願いします」とノータッチだったそうです。それを聞いて武重さんは「おまえ監督だろ!」と呆れ返ったらしい(笑)。

こうして、様々なアクシデントを乗り越え、ようやく『借りぐらしのアリエッティ』は完成し、2010年7月17日に全国公開されました。結果は大ヒット、最終興行成績は92億5000万円に達し、その年の邦画ナンバー1に輝いたのです。映画公開後、米林監督は「あの2カ月がなければアリエッティは完成しなかった」と心情を告白していました。

しかし、「いったいなぜ僕が監督に選ばれたのか、いまだに理由がわからない」と不可解な人選に疑念を抱いている様子。まさか宮崎さんと鈴木さんの意地の張り合いによるものだとは想像もできないでしょうね(監督が決まるまでのやり取りを知ったらどう思うのかなあw)。

ちなみに映画の完成後、鈴木プロデューサーが米林監督の奥さんにお礼を言ったら、「二度とうちの夫に監督をやらせないで下さいッ!」と大激怒されたとか。どうやら、『アリエッティ』を作っている間はほとんど家にも帰れず、家庭がメチャクチャになっていたらしい。

そこで米林監督は、最新作の『思い出のマーニー』を作る際に「奥さんに負担をかけてはいけない」と考え、わざわざジブリの近所へ引っ越して来たそうです。凄い覚悟ですねえ(^.^)


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