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『スター・ウォーズ』が生まれた日:禁断の制作秘話/裏話を大公開!


ゴールデン・ウィーク真っ只中、皆さんいかがお過ごしでしょうか?本日、5月4日はなんとスター・ウォーズ』の日です!いや、もちろん日本では”みどりの日”なんですけど(笑)、海外ではルーカス・フィルム公認の“Star Wars Day”であり、世界中のファンがスター・ウォーズの文化を祝い、映画を称える日として親しまれてきたそうです。

ではなぜ、5月4日がスター・ウォーズの日なのかと言えば、劇中の定番セリフ「May the Force be with you(メイ・ザ・フォース・ビー・ウィズ・ユー=フォースと共にあらんことを)」を「May the 4th(メイ・ザ・フォース=5月4日)」にかけた語呂合わせらしい(ダジャレかよw)。

ちなみに、日本の一般社団法人・日本記念日協会も、5月4日を「スター・ウォーズの日」と正式に認定したそうです。というわけで、本日は「映画『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望(STAR WARS EPISODE Ⅳ A NEW HOPE)』が出来るまで」の裏話や知られざるマル秘エピソードをご紹介しますよ。

1977年5月25日、アメリカで初公開された『スター・ウォーズ』は、上映館がたったの32館という少なさであったにもかかわらず、瞬く間にそれまでの興行記録を塗り替え、全米興行成績ナンバー1に輝き、1億2700万ドルというとてつもない記録を叩き出しました。そして翌年1978年6月には日本でも公開され、観客動員数2348976人、興行成績43億8751万円という前人未到の大ヒットを記録したのです。

更に、驚異的な快進撃はこれだけに止まらず、リバイバル上映や『特別篇』、新三部作や3D版など長期に渡って劇場公開され続けた結果、シリーズ全体の興行収益は43億3000万ドルに達し、全世界歴代興行成績ランキングにおいて(シリーズものとしては)『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズを抑えて堂々の第3位に輝くという快挙を成し遂げました(ちなみに1位は『ハリー・ポッター』シリーズ、2位は『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズ)。

このように、映画と言うよりも“巨大なお祭り”と化した感のある『スター・ウォーズ』ですが、第一作目の完成に至るまでは、現在の状況からは想像も出来ないほど苦難の連続だったそうです。若き映画監督:ジョージ・ルーカスを襲った受難とは、いったいどのようなものだったのでしょうか?

世界で初めて『スター・ウォーズ』が公開される4年前の1973年夏、アメリカは一本の低予算青春映画に酔いしれていました。そのタイトルはアメリカン・グラフィティ。興収は1億1700万ドルで、当時のレートに換算すると250億円以上の大ヒットです。

しかし、『アメリカン・グラフィティ』が公開されるまで、映画監督ジョージ・ルーカスの生活は貧乏のどん底でした。当時の年収は、奥さんのマーシャと合わせても2万ドル以下。両親や弁護士、そして友人のフランシス・フォード・コッポラからも多額の借金をしていて、ほとんど破産寸前の状態だったそうです。

ところが、『アメリカン・グラフィティ』の予期せぬ大ヒットによって状況が一変!ルーカスは一夜にして700万ドルという途方もない利益を手にする事になったのです。急に莫大なお金が入ってきたルーカスは、「あまりにも長いこと貧乏だったんで、”何か物を買えるんだ”という事に気付くまでに、しばらく時間がかかったよ(苦笑)」と、戸惑いを隠せませんでした。

そして、この『アメリカン・グラフィティ』の大ヒットによって、ようやく念願のSF映画を撮るチャンスが巡って来たのです。それが『スター・ウォーズ』でした。当初、ルーカスは『スター・ウォーズ』の企画をユニヴァーサル・スタジオに持ち込んでいましたが、脚本を読んだ担当者が「さっぱり分からん」とあっさり却下。おかげでユニヴァーサルは、後に世界中で8億ドル近くの興収を叩き出すドル箱作品を、みすみす手放すことになってしまったのです。

ユニヴァーサルに断られたルーカスは、次に企画を20世紀フォックスへ持ち込みました。するとユニヴァーサルが断った10日後に、20世紀フォックスが正式契約を申し込んできたのです。フォックスの重役アラン・ラッド・ジュニアが、『アメリカン・グラフィティ』の試写を観て感激し、すぐさま製作を決定(この時点では『アメリカン・グラフィティ』は、まだ劇場公開されていなかった)。実はアランも『スター・ウォーズ』の内容はさっぱり理解不能だったのですが、どうしてもルーカスと仕事をしたかったのです。

ルーカスに向かってアランはこう言いました。「正直、私にはこの『スター・ウォズ』という映画は良く分からない。しかし私は君を信用するし、君は才能のある男だと思っている。だから私はこの脚本ではなく、君に投資するつもりだ」と。こうしてめでたく『スター・ウォーズ』の製作がスタートしたワケですが、そこには想像を絶する苦難の日々が待ち受けていたのです!

1976年3月26日、惑星タトゥイーンのロケ地チュニジアでルーカスたちは映画の撮影を開始しました。最高気温が42度前後で、常に暑くて乾燥している過酷な環境のチュニジア。ところがなんと、そんな灼熱の砂漠地帯に突然雨が降り始めたのです!

チュニジアでこの時期に雨が降ったのは実に50年ぶりの出来事だそうで、現地の人もびっくり仰天。これによってルーカスが強烈な“雨男”だという事が判明してしまいました(ちなみに、16年後の『エピソード1』の撮影時に再びチュニジアを訪れた時も、やっぱり雨が降ったそうです。ルーカス恐るべし!)。

しかも、今まで誰も経験した事が無いような凄まじい大雨で、あっという間に周囲の砂漠が川に変わってしまったのですからハンパではありません。スタッフのトラックが身動き出来なくなるほどの激しい豪雨に一同呆然。撮影機材や大道具などが次々と水に流され、現場は大混乱に陥りましたが、この雨はこれから始まる悲劇の幕開けにすぎなかったのです!

R2-D2のロボットはリモコンが故障して、1メートル動かすだけで丸一日が消えました。イギリスから送られてきたセットは、ロケ地に運ぶだけで4日間も消費。全長27メートル、高さ8メートルの巨大なサンド・クローラーのセットは、ルーカスが撮影する前日に起きた砂嵐でバラバラに!しかたなく、一日がかりで組み立て直してまた一日かけて撮影するという有様です。

自動車を改造したランド・スピーダーも走行不能アンソニー・ダニエルズは全く身動き出来ないC-3POのコスチュームを着けて、滝のような汗をかきながら毎日8時間の撮影に耐え続けなければなりませんでした。R2-D2の中に押し込められたケニー・ベイカーは、持病の閉所恐怖症がますます悪化する始末。

おまけに、クルーが泊まったホテルも最悪で、出された食事で全員ひどい下痢になってしまったのです。特殊メイク担当のスチュアート・フリーボーンは流感にやられ、早々とロンドンへ帰国。他のスタッフも次々と赤痢でぶっ倒れてしまい、とても撮影続行できるような状況ではありません。

挙句の果てに、隣国リビアの監視員がサンド・クローラーの大型セットを発見して、「正体不明の巨大な軍事用車両が国境付近に潜伏している!」チュニジア政府にクレームをつけてきたのです。情報が錯綜し、一時は軍隊が出動するほどの大騒ぎに!プロデューサーのゲイリー・カーツ曰く、「あの時は危なかった。もう少しで戦争になるところだったよ(苦笑)」とのこと。

結局、チュニジアに滞在した11日間で、予定していたカットの半分も撮影する事ができず、ほとんどのシーンをアメリカへ戻ってから撮り直す事になってしまいました。敗戦兵のような暗澹たる気持ちで帰国の飛行機に乗り込むルーカス監督。しかし、この後もまだまだルーカスにはとんでもないトラブルが襲い掛かるのです。

チュニジアから戻ったルーカスは以前にも増して陰鬱で、無口で、弱々しくなっていました。大金を掛けて海外ロケに行ったのに、予定していたショットをほとんど撮影出来なかったのですから落ち込むのも無理はありません。

おまけに、留守中に泥棒に入られてビデオ機材など撮影道具一式を全て盗まれてしまったのですから、もう踏んだり蹴ったりです。しかし、そんな不幸のどん底みたいなルーカスに、さらに追い討ちをかけるような出来事が待ち受けていました。

1976年の3月から、ルーカスは自分の嫌いな国で、彼を狂人扱いする人達に囲まれ、およそ70日間にわたって映画を撮影しなければならなかったのです。エルトリー・スタジオは、イギリスでは最も古い映画スタジオの一つですが、ゲイリー・カーツが見つけてくるまでは放置されて廃屋同然になっていました。それを格安で借り受け、九つのサウンド・ステージをミレニアム・ファルコン号などの巨大なセットで満杯にしたのです。

ちなみに、ミレニアム・ファルコン号の実物大セットは、予算が無かったため右半分しか作られなかったのですが、それでも巨大すぎて別の場所へ移動させることが困難でした。そこでスタッフは、「ドッキングベイ94」でハン・ソロとジャバの会話シーンを撮った後、ファルコン号の周りのセットを全て壊し、新たにデススター内部のセットを周囲に組み立てて、「帝国軍に捕えられたファルコン号」のシーンを撮影したそうです。



こうして、イギリス人クルーを中心とした現場で撮影は開始されたものの、日に日に雰囲気は険悪になっていきました。元々ルーカスは物静かなタイプなのですが、イギリス人の目には「静か過ぎて何を考えているのか分からない監督」と映ってしまったのです。

さらに、イギリス人スタッフは自分たちの技術に誇りを持っていたので、若いルーカスの指示を受けるのが非常に不愉快でした。そのため、カメラマンや助監督と何度も衝突し、ルーカスのストレスは日を追う毎に増大していったのです。

そして、ある日とうとうカメラマンのギルバート・テイラーと、照明の当て方をめぐって大喧嘩が勃発!ルーカスはすぐにでもテイラーをクビにしたかったのですが、そんな事をすると他のスタッフも全員辞めてしまう恐れがあったので出来ません。

挙句の果てには、スタッフから「現場の終業時間の5時半以降は、一切仕事は出来ない」と告げられたのです。このため、ギリギリで時間までに終わらなかった撮影は、全て次の日の朝から撮り直しになるなど、作業効率はどんどん悪くなっていきました。

「ほんの4,5分のオーバーもさせてくれないために半日も潰してしまうんだ。本当に頭にきたよ!」とルーカスは大激怒。現場のテンションは下がる一方で、ゲイリー・カーツは心身ともに疲れ切ったルーカスが自殺するんじゃないかと毎日ヒヤヒヤ。ただ、そんな厳しい制作状況の中でも、ルーカスはキャストの実力を疑ったことだけはありませんでした。

ルーク、ハン・ソロレイア姫のキャスティングは、当初ウィリアム・カット、カート・ラッセルジョディ・フォスターがそれぞれ候補として挙げられていましたが、最終的にマーク・ハミルハリソン・フォードキャリー・フィッシャーに決定。3人は初めての大役ということで、撮影現場でも非常に仲が良く、いつも元気いっぱいだったそうです。

ルーカスはそんな彼らに自分のやり方を押し付けようとせず、常に自由に演じさせました。当時の様子をハリソン・フォードは次のように語っています。「ジョージのやり方は、偉い監督にありがちな”俺はこの道25年もやってるんだ!信用しろ!”みたいな、独裁的な態度じゃないんだ。この映画が僕たち三人の関係に掛かっていると彼には分かっていたんだよ。だから、僕らのやり方を認めてくれたんだ」

しかし、撮影中もルーカスの不運は一向に収まらず、スチュアート・フリーボーンが過労で入院するわ、特殊効果担当者が火薬の量を間違えてセット全体を爆破してしまうわ、ストーム・トルーパー役のスタントマンが開閉式の扉に頭をぶつけて脳震盪を起こすわ(このシーンは撮り直しの時間がなかったので、そのまま本編で使われている)、ありとあらゆるトラブルが頻発しました。

ついには、ダース・ベイダーが最初に登場するシーンを撮影中、マスクでほとんど周りが見えなかったデヴィッド・プラウズが宇宙船の廊下で見事に転倒し、その上に後続のストーム・トルーパーたちが次々と積み重なってしまうというコントみたいなアクシデントまで発生!こうして、ただでさえ厳しかったスケジュールは、どんどん遅れていったのです。

そして、ある日ついに我慢の限界に達した20世紀フォックスから、「あと3日で全ての撮影を終了せよ!」との最終通告が来てしまいました。この時点で既にスケジュールは5週間も遅れており、クリスマス公開はもはや絶望的となっていたのです。

そこで、スタジオは急遽来年の夏を新たな公開予定日と設定したのですが、ルーカスは大慌て!まだ2週間分の撮影がそっくり残っていたからです。たったの3日で2週間分の撮影を撮り切るために、ルーカスはもう2組のカメラ・クルーを雇い、同時に3組のカメラ班に並行して撮影を続行させました。

それは例えるなら、夏休みの宿題を最終日に必死になって仕上げる小学生のような心境でしょうか。一日中、3台のカメラをフル回転させるという、気も狂わんばかりの超ハードスケジュールに、ルーカスは一瞬たりとも休む間も無く、死に物狂いでセットからセットへと走り回りました。こうして、どうにかギリギリ3日でクランクアップにこぎつける事が出来たのです。しかし、ルーカスの苦難はまだまだ終わりません。

スケジュール以外で何に一番苦労したかと言えば、とにかく貧乏で「セットや小道具に全然お金が掛けられない」という事だったそうです。そこでスタッフたちは少しでも製作費を節約するために、中古銃の倉庫に足を運んで再利用できるものをひたすら探す事になりました。

すると、スターリン軽機関銃が山ほど見つかったので、これを一番数が必要なストームトルーパーのブラスターに使うことに決定。実銃を使えば役者も発射のタイミングを実感できて、ただ撃ったマネをするよりも迫真の演技が出来るからです(メイキング映像を見ると実際に発砲していることがわかる)。

しかし、さすがにそのままだとバレバレなので、先端の部分にパーツをたくさん貼り付けて“未来銃”のような外観に改造しました(このパーツは車のウインドウを仕切る部分の、シーリング用のプラスティック・レールです)。

さらに倉庫から埃まみれの大きな箱を見つけると、中に筒型の古いカメラのフラッシュが何本も入っていました。これを箱ごと買い取って、トルーパーのブラスターに使ったパーツを貼り付け、ライトセーバーを作ったのです。

また、R2-D2のドーム型の頭部は、撮影用照明ランプの傘の部品を使用。頭部に設置された様々な装置は、旅客機の座席の読書用ライトを流用しました。こうしてルーカスは、ありとあらゆる物をリサイクルで切り抜けたのです。まさにビンボー学生もビックリの節約術と言えるでしょう。

ただし、『スター・ウォーズ』が大ヒットして色々な物が商品化されるようになった時、玩具メーカーは大変な苦労を強いられました。スタッフに図面を要求しても、全部現場ででっち上げたものばかりで、そもそも図面など存在しなかったからです。

そんな涙ぐましいコストカットを駆使しながら、ルーカスがイギリスで悪戦苦闘の撮影を続けている間、20世紀フォックスの上層部では大変な問題が持ち上がっていました。アラン・ラッド・ジュニアがルーカスと最初に交わした契約では、『スター・ウォーズ』の予算は300万ドルだったのに、撮影が始まったら何と1000万ドルに跳ね上がっていたのです!

いったいなぜ、こんな事になってしまったのでしょうか?実は、「本当の予算を話したら取引を中止されるかもしれない」と心配したルーカスが、実際の予算よりもかなり少ない金額を提示していたのです。

アランはこの事実を知った時、頭を抱えましたが、仕方なく20世紀フォックスの会計監査役にこの予算書を提出しました。当然ながら担当者は呆れ果て、550万ドルまでの切り下げを指示。しかし、ルーカスはそんな命令を無視して、映画製作に必要な設備を次々とポケットマネーで購入していきました(最終的にルーカスが自腹で払った費用は100万ドルを超えたらしい)。後に世界中の特撮産業を席巻する“光と魔法の工房”もその一つです。

撮影開始の一年前、ルーカスはヴァンナイス空港にほど近いベッドタウン内の寂しい界隈に、1400平方メートルの広さがある二階建てのビルを借り、そこをジョン・ダイクストラと8人の助手にあてがいました。

そして、この倉庫の業務を偽って、映画製作ではなく「電子部品を販売している会社」という印象を与えるために、“インダストリアル・ライト・アンド・マジック”という社名を考案。こうして、世界最強のVFX制作会社ILMが誕生したのです。

ダイクストラは、ハリウッドやシリコンバレーからSFオタクやパソコンオタクや模型オタクなど、超一流のオタクたちを集めて“特殊な軍団”を作り上げました。その結果「特撮のことなら誰にも負けない!」という才能の持ち主が一堂に集結。すなわち、ILMは”オタクの梁山泊”だったのです。

そんなオタクたちの人数は日を追う毎に増えていき、最終的には100人以上になりましたが、平均年齢はわずか27歳でした。こうして集められた100人のオタクたちは、昼夜を問わず『スター・ウォーズ』の特撮を製作し続けたのです。

しかし、イギリスから戻ったルーカスに衝撃の事実が待ち受けていました。なんと、ILMは一年間に400万ドル以上の費用を使っておきながら、ほとんど成果を上げていなかったのです。出来ていた特撮ショットはたったの3本。しかも、その内の2本はルーカスのイメージとかけ離れ過ぎていて、全く使い物になりません。想像を絶する酷い状況に、ルーカスは我を忘れて激怒しました。

ところが、あまりにも急激に怒り過ぎたために持病の高血圧が悪化し、その晩緊急入院するハメになってしまったのです。病院のベッドの上でルーカスは考えました。「この映画はもうダメかもしれない…」。そしてこの時、ルーカスは『スター・ウォーズ』の撮影が終わったら、監督業から引退する事を決意したのです。

一方、ルーカスがストレスと過労でぶっ倒れている間に、20世紀フォックスでは『スター・ウォーズ』の企画を続行すべきかどうか、真剣に討議が行われていました。なんせ、当初は300万ドルだった予算があっという間に1000万ドル以上に膨れ上がり、撮影スケジュールも大幅にオーバーしまくっているのですから無理もありません。

さらにこの期に及んで、チュニジアで撮り残したショットの追加撮影の費用として10万ドルを要求してきたのですから、役員たちは大激怒!「いったい、どうしてコストがここまで膨れ上がったのか?」と会議室で説明を求められたアラン・ラッド・ジュニアは、「『スター・ウォーズ』が今までに無い素晴らしい映画だからです!」ときっぱり言い放ち、立ち上がって部屋を出て行ってしまいました。

それを見て呆気にとられる役員たち。しかし、結局ルーカスは追加撮影の費用として2万ドルを手に入れる事が出来たのです(この2万ドルで”モス・アイズリーの酒場のシーン”を撮影したらしい)。

その後、ルーカスは“チュニジアにそっくりな場所”という理由で、デス・バレーで追加撮影する事に決めました。ところが、撮影出発の当日、ルーカスの元にとんでもない電話が!なんとそれは、主役のマーク・ハミルが、ロス近郊のアンテロープ・フリーウェイをドライブ中に20メートルの急斜面から転落した事を伝えるゲイリー・カーツからの電話だったのです。ついに「主演俳優が大ケガで入院」という最悪の事態が勃発!映画監督にとって、これ以上悪い知らせはありません。

しかし、事故の知らせを聞いたルーカスはノーリアクション。撮影開始以来、あまりにも多くのトラブルが起こり過ぎたために、感覚がすっかりマヒしていたのでしょう。あれこれ考える気にもなれなかったルーカスは、一言「あ、そう」と言い残すとハミルの代役を連れて、さっさとデス・バレーに旅立ってしまいました。

そして、最後の追加撮影は「惑星ヤヴィンに潜伏する反乱軍」のシーンです。ルーカスのイメージはグアテマラでしたが、ゲイリー・カーツは「もっと近場で撮影して、少しでも経費を節約してくれ!」と経済状況が限界に達している事を強調しました。

でも、ルーカスはそんなカーツの要望を完全に無視して、リチャード・エドランドを現場へ派遣。しっかり、マヤ神殿の遺跡を背景に、衛兵のショットを撮影したのでした(もはや、やけくそになっていたのかもしれませんw)。ともかく、こうして『スター・ウォーズ』はようやく全ての撮影が終了し、ルーカスは地獄のような日々から解放されたのです。

スター・ウォーズ』の最後のカットを撮り終え、心身ともにボロボロに成り果てたジョージ・ルーカス。ようやく全ての撮影が終了したものの、劇場公開までにまだまだやるべき事は山積みでした。しかし、地獄のような日々を耐え抜いたおかげか、少しずつルーカスに“希望の光”が見え始めていたのです。

まず、絶望的と思われていた特撮工房「ILM」に奇跡が起きました。全く新しいカメラシステムをゼロから設計して製造し、わずか4ヶ月で利用できる状態にまで持っていく事に成功。さらに、一日18時間の使用を8ヶ月続けて、作動出来なくなったのはたったの3日間だけという快挙を成し遂げたのです。

奇跡が起きたのは特撮だけではありません。1975年3月、ルーカスはスティーブン・スピルバーグに「ジョン・ウィリアムズを紹介して欲しい」と依頼。初めてウィリアムズに会ったルーカスは、『スター・ウォーズ』の音楽について次のように説明しました。

「この映画の視覚的な要素は、全て馴染みが無いものばかりで構成されています。だから、耳を通じて観客のエモーションをかき立てる要素は、逆に馴染みがあるものにする必要があるんです」。それを聞いてウィリアムズは、流行の電子楽器ではなくアコースティック楽器を使ったフル・オーケストラを作曲しました。

そして、ロンドン交響楽団による演奏を初めて聴いたルーカスは大いに感激し、「『スター・ウォーズ』の中で、僕が思っていた以上の仕上がりになったのは音楽だけだよ!」と大絶賛。逆にスピルバーグは大慌て。なぜならウィリアムズに『未知との遭遇』の音楽を依頼しようとしていたからです。おかげで、二人は出来るだけ『スター・ウォーズ』と異なった音楽を作ろうと、四苦八苦するハメになってしまいました。

さて、いよいよ映画が完成に近づいてくると、ルーカスは友人たちを招待して映画を見せる事にしました。スティーブン・スピルバーグマーティン・スコセッシブライアン・デ・パルマ他、映画評論家ジェイ・コックスなど、業界関係者を多数呼んで上映会を開いたのです(スコセッシはドタキャンした)。しかし、上映が終了すると全員目が点になっていました。一つの拍手も無く、永遠に続くかと思うような気まずい沈黙。

そして、皆口を揃えて「いやはや、なんてヒドい映画だ!」と罵倒し始めたのです。特にデ・パルマの酷評ぶりは凄まじく、「レイア姫のあの髪型は一体なんだ?菓子パンか?」、「今まで観た映画の中でも最低の作品だよ!」と言いたい放題でした。さらに、ルーカスの奥さんのマーシャでさえ、この映画の失敗を確信して大声で泣き出す有様。ゲイリー・カーツは彼女を落ち着かせるために、別室へ連れて行きました。

その間にも、デ・パルマの容赦の無いマシンガン攻撃みたいな批評は止まりません。「最初にダラダラと流れる状況説明の字幕は我慢できないね。永遠に続くかと思ったよ!」、「観客の知らないバックグラウンドが多すぎる。自分だけわかって勝手に話を進めるのは観客に不親切だ!」などとありとあらゆる罵詈雑言を浴びせかけるブライアン・デ・パルマ

挙句の果てに「マーティン・スコセッシの『ニューヨーク・ニューヨーク』は立派な大人の映画だ。それに引き換え、『スター・ウォーズ』は幼稚な子供向け映画で、誰も真剣に観やしないよ!」とまで言い出す始末。黙って彼の批評に耳を傾けていたルーカスも、ついに堪忍袋の緒がブチ切れました。「よく言うよ!あんたの映画は儲かったためしが無いくせに!僕はせめて5000万ドルは儲けてやるからな!」

しかし、メンバーの中で唯一人だけ『スター・ウォーズ』を絶賛する者がいたのです。それが、スティーブン・スピルバーグでした。彼は「なんて素晴らしい映画だ!この作品は5000万ドルどころか、1億ドル以上を稼ぎ出すに違いない!」と言い放ち、皆を呆れさせました。当時、1億ドル以上儲けた映画は『ジョーズ』や『ゴッドファーザー』など、超特大のヒット作だけだったからです。

上映後の昼食の席でもスピルバーグの賞賛は止まらず、「そのワケは、『スター・ウォーズ』が信じられないぐらい無邪気でナイーブだからだよ。あの映画は、ジョージ・ルーカスという人間そのものなんだ。観客はきっとそんな彼を愛すると思うよ」と繰り返し主張し続けたのです。

しかし、その熱心な主張に対して他のメンバーはもちろん、当のルーカス本人でさえ、懐疑的な表情を浮かべていました。そんな皆の反応を見てスピルバーグは、「よし、じゃあ公開から半年間でこの映画の興収がいくらになるか、その数字を書いて封筒の中に入れておこう。君たちが間違っている事を証明するためにね!」と言って数字を書き残したのです。この時、スピルバーグだけがこの映画の大ヒットを確信していました。

しかし、半年後にルーカスが封筒を開けると、そこには“3300万ドル”と書かれていましたが、その時点で既に『スター・ウォーズ』はその何倍もの興収を叩き出していたのです。スピルバーグが予言した1億ドルは、最初の3ヶ月であっさりクリアー。

その後も『スター・ウォーズ』は断続的に何年にもわたって上映され続け、最終的に全米で4億6000万ドル、全世界ではなんと8億ドルという空前絶後の大記録を打ち立てる事になりました。これには、スピルバーグデ・パルマはもちろん、当のルーカスもびっくり仰天。

なんせ、連日の編集作業でクタクタに疲れ切っていたルーカスは、奥さんのマーシャとたまたま立ち寄ったハンバーガーショップで、チャイニーズ・シアターに群集が殺到しているのを横目で見ながら(それが自分の映画だとは全く気付かず)、「いいなあ、あんなに大ヒットして…」と、のん気にハンバーガーを食べていたのですから(この翌日、ルーカスは奥さんとハワイへ旅立ち、そこでスピルバーグと合流して『レイダース』を企画する)。

このエピソードは、ファンの間でも良く知られている有名な裏話の一つなんですけど、いったいなぜルーカスは『スター・ウォーズ』だと気付かなかったのでしょう?実は、その頃チャイニーズ・シアターでは、ウィリアム・フリードキン監督の『恐怖の報酬』が上映される予定だったのです。ところが、『恐怖の報酬』の制作が遅れたため、急遽『スター・ウォーズ』の上映が決まったのですよ(しかも、関係者は誰もそのことをルーカスに伝えていなかったらしいw)。

こうして『スター・ウォーズ』は、ルーカス本人も自分の映画であることに気付かないぐらい大量の観客を動員し、事前の予想を遥かに上回る世界的な大ヒット映画へと変貌を遂げたのでした!

ちなみに、翌年日本で公開された時、東京のプレミア上映会に出席したアラン・ラッド・ジュニアはとんでもない体験をしたそうです。初めて『スター・ウォーズ』を観た日本人の観客は全員凍りついたように沈黙したまま、拍手や笑いや歓声は一切無し。

アランは大変なショックを受け、「もう、この映画の失敗は確実だ…」と激しく落ち込みました。しかし、この後20世紀フォックスの日本配給元の人たちと一緒に夕食に行った時、一人の重役から「いや〜、『スター・ウォーズ』の反響は実に素晴らしかったねえ!」と言われてびっくり。

さらに、「映画に向けられる最高の反応は、日本では“敬意を込めた静寂”なのです」と聞かされて二度びっくり!アメリカと全然違うじゃないか!まあ、日本の劇場では映画が始まる前に「上映中はお静かに」ってアナウンスが流れるぐらいですからねえ(笑)。この出来事から数年後、アランは「あれがもし一番最初のプレミアだったら絶対にキレてたよ。“こんな映画、テレビでもどこでも売り飛ばせ!”ってね(笑)」と笑いながら語っていたそうです(^.^)



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