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『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の内容をじっくり検証してみた


先日から『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』に関する記事をいくつかアップしてたんですけど、肝心の感想をまだ書いてないということに気付いたので、本日感想を書いて『エヴァQ』の総括にしたいと思います。

え〜、まずいきなり結論を言ってしまうと「あまり面白くはなかった」です(好きな人には申し訳ない)。面白い・つまらないの評価基準は人それぞれだと思いますが、僕の場合は「この映画がソフト化された時に買うかどうか?」という観点から判断することが多いんですね(面白いと思った映画は大体ソフトを買っています)。

ちなみに『エヴァ』に関しては、TVシリーズはLDを買い、旧劇場版はDVDを買い、『序』と『破』はブルーレイをそれぞれ買いました。そんな僕ですけど、今回の『Q』だけは「ちょっと買う理由が見当たらない」としか言いようがありませんでしたねえ。

まず気になったのは、意外と作画が雑なこと。冒頭の宇宙空間における戦闘シーンは大満足なんですが、直後のヴンダー起動シーンは突然クオリティが下がるなど、全体のバランスがチグハグ過ぎるんですよ(多分、ヴンダーのCGはソフト化の際に修正されると思いますが)。

スタッフ編成を見ると、作画監督井上俊之(『AKIRA』、『攻殻機動隊』など)、総作監本田雄(『ナディア』、『エヴァンゲリオン』など)、そして原画に安藤雅司沖浦啓之西尾鉄也橋本敬史今石洋之松原秀典など、業界屈指の凄腕アニメーターが揃って参加していることがわかります。が、その割には前作よりも完成度が落ちたように見えるのがどうにも納得できないというか。

そもそも『破』の時は、作監が4人、作監補佐が3人、原画が50人もいたのに、本作では原画としてクレジットされているアニメーターが35人しかいないし(単純に、スタッフが減った皺寄せで画面がショボくなったのかなあ?)。

また、例によってスケジュールも遅れまくっていたらしく、『ももへの手紙』が終わってから『エヴァQ』に合流した沖浦啓之は、公開日が11月であるにもかかわらず、「10月後半になってもまだ原画を描いていた」と告白していました(ちなみに沖浦さんは『ももへの手紙』の監督です)。

さらに、碇シンジ役を演じた声優の緒方恵美さんによると、アフレコ収録の時点でAパート(シンジがヴンダーを去るまで)は割と絵が完成してたようですが、中盤以降は「何も描かれていなかったので、現場で庵野さんに内容を確認し、説明を受けながら収録した」らしい(ムチャクチャですよw)。

そしてストーリーの方を見てみると、こちらもまた微妙な出来栄え。前作『破』はTV版の第19話までを元にシナリオを組み直しているので、かなり安定した面白さを確保していました。しかし、本作からは今までとは全く異なる新展開へ突入したため、不安定な雰囲気がそのまま表れています。

てっきり、『破』のラストシーンから続くのかと思いきや、突然14年後の世界から物語が始まる意表を突きまくりの導入部に唖然茫然。昔、『蒼き流星SPTレイズナー』というロボットアニメを見ていたら、途中の回からいきなり時代が飛んで驚いたことがあったんですけど、それと同じ心境でした(例えが分かり難いかw)。

いや、「14年後」という設定自体はいいんですよ。意外性があって面白いし、物語を先読みできないワクワク感もあるし。ただ、せっかく登場したヴィレの新メンバーやミサト達とほとんど絡むことがないまま主人公がヴンダーを降りてしまったり、ネルフの本部へ行っても誰もおらず、カヲル君とのホモホモしい場面が延々と続くだけでちっともストーリーが進展しないのはどうにかして欲しかった(正直、「男二人がイチャイチャするシーンなんてどうでもいいからさっさと話を進めてくれ!」と心の底から思いましたよw)。

あと、戦闘シーンにカタルシスが無いのもかなり問題ではないかと。『序』のヤシマ作戦や『破』のゼルエル戦の場合は、「主人公が何のために戦っているのか」という行動原理が明確だったから、キャラクターに感情移入できたのです。

しかし、本作ではミサトたちが何から攻撃を受けているのか、シンジが何をやろうとしているのか(意図的に隠しているとしても)、状況が分からなさ過ぎてちっとも感情移入できず、全然カタルシスが得られません。

でも、個人的に一番気になったのは、作り手の”主義主張”が見えないことなんです。かつてのTV版では、キャラクターが突然線だけになったり、絵コンテや台本をそのまま映すなどの奇妙な映像表現が話題になりました。

また、旧劇場版(EOE)でも「映画を見ている観客自身の姿を映し出す」という前代未聞の手法を取り入れ、多くのファンを唖然とさせたのです。当時、劇場で体験した人は、今でもあの時の異様な雰囲気を覚えていることでしょう。

これらの不思議な表現は、庵野監督の主義主張を明確に具現化したものなんです。すなわち、線だけのキャラを見せることで「アニメの登場人物は単なる記号なんだ」ということを訴え、劇場内の観客自身を映すことで「これがアニメに夢中になってるお前らだ!」という身も蓋も無い事実をぶちまけたわけですよ。

今観ても、TV版や旧劇場版(EOE)の結末はメチャクチャで、完全に作劇の常識を逸脱しているとしか言いようがありません。しかし、そこには作り手の強烈なメッセージが込められており、だからこそ多くの観客に凄まじいインパクトを与えることができたのです。

庵野秀明監督が旧作で訴えていたもの。それは、熱心なアニメファンに対する痛烈な批判でした。旧劇場版を作っていた当時の庵野監督は、雑誌のインタビューで次のように語っています。

アニメーションっていうものが、少なくとも僕が作った『エヴァンゲリオン』というものが、ただの避難所になるのが、すっごいイヤだったんですよ。現実逃避の場所でしかなくて、そこにどっぷり浸かることによって、現実のつらさから逃げてるだけで、そこから現実に帰るものがあまりなかったんです。どんどんそこに逃げ込む人が増えてきて、このままだと極論すれば宗教になるなと。オウム信者と、麻原彰晃と同じになる。それがイヤでイヤでたまらなかったですね。

つまり『新世紀エヴァンゲリオン』とは、辛い現実から目を背け、閉じた世界の中だけで自己満足的な喜びを享受している多くのアニメファンに対し、「お前らアニメばっか見てんじゃねえよ!もっと現実に向き合え!」という凄まじいばかりのメッセージ性を内包した、空前にして絶後のアニメーションだったのですよ。

今振り返っても、これは画期的なことだと思います。だって、お金を払って映画を観に来た自分のお客さんに対して、「アニメばっか見るな!お前ら気持ち悪いんだよ!」と頭から水をぶっかけるようなもんですからね(笑)。商業映画では絶対有り得ないし、単なる娯楽作品でもない。もはや完全にアートであり、ある種の”破壊活動”と言っても過言ではないでしょう(笑)。今観ても「よくこんな映画を公開できたもんだ」と感心するしかありません。

こういう事実を踏まえた上で『新劇場版』を観てみると、何か物足りないような気がするんですよねえ。作品を貫く”軸”が抜け落ちて綺麗な外観だけが残ったような。『序』と『破』はエヴァの中でも面白いパートだったのでまだ楽しめたんですけど、新展開の『Q』になったらいよいよ中身が空っぽで”器”だけという実態が露呈してしまったというか。

総監督になった庵野さんは、『新劇場版』でいったい何を訴えようとしているのか?最近は滅多にインタビューを受けない庵野さんですが、特撮博物館の作業に取り組んでいた頃、朝日新聞社の取材に対して次のように答えています。

旧作のエヴァでは、僕が”娯楽”として作ったものを、その域を越えて”依存の対象”とする人が多かった。(新劇場版を作ったのは)そういう人々を増長させたことに、責任を取りたかったからなんです。作品自体を娯楽の域に戻したかった。ただ、今はそれをテーマにするのは引っ込めています。そういう人々は何を言っても変わらない。やっても仕方がないってことが、よく分かりました。

つまり、「旧作で色んなことを訴えてきたけど、アニメオタクは何を言っても無駄だということが分かったので、今回はテーマを設定していない」ということらしい。まあ、旧作であれだけオタク批判を繰り広げたのに、オタクが減るどころかますます増大する結果になったことを考えると無理もないでしょう(笑)。なんせ、現時点でエヴァの市場規模が1500億円を超えてるっていうんだから、完全に逆効果ですな(笑)。

というわけで、『エヴァQ』に対する僕の評価は上記のような理由で「あまり面白くない」なんだけど、まだあと1本残ってるんですよね。旧作では、オタクに対する嫌悪感を前面に押し出した結果、トラウマになりそうなほどの衝撃を残して伝説のアニメになったエヴァですが、そういうテーマ性を引っ込めた本作はいったいどんな結末へ着地するのか?それを確認するために、完結編の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖』を期待して待ちたいと思います。いつ公開されるのかは分かりませんけど(笑)。

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